頼朝、直義、秀吉、家康が崇敬した「関東のお伊勢様」、鎮座1000年
[住所]東京都港区芝大門1-12-7
[電話]03-3431-4802

芝大神宮(しばだいじんぐう)は、東京都港区芝大門にある神社。日本七神明の一社で、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い、「関東のお伊勢様」とも尊称された。

準勅祭社に指定され、現在はそれがもととなって成立した東京十社の一社。近代社格では府社

もともとは、単に「神明」あるいは「神明宮」と称していたが、武蔵国日比谷郷に鎮座していたことから「日比谷神明(日比谷神明宮)」とも。

また飯倉御厨(後の武蔵国飯倉庄)に鎮座していたことから、「飯倉神明(飯倉神明宮)」と、さらに芝の地に住民が居留して町の様相を呈するに及び「芝神明(芝神明宮)」とも称されるに至った。

御祭神は天照皇大御神豊受大御神で、伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)に相当している。

東京都内では珍しく「豊受大御神」の神札も授与している。相殿神は源頼朝公、徳川家康公。

武蔵国に置かれた伊勢神宮の御厨である「飯倉御厨」(『神鳳鈔』)に創祀された神明社に起源を持つとされ、当初は飯倉山(現 港区芝公園)に鎮座していた。

社伝によれば、一条天皇の御代、寛弘2年9月16日(1005年10月21日)、伊勢の内外両宮を勧請して創建し、日向国鵜戸郡から得た「鵜戸石」と剣を神宝として奉納した。

源頼朝は元暦元年(1185年)と建久4年(1193年)の二度にわたって神領を寄進し、特に後者においては自ら社参の上、1300余貫の地を神田として寄進したという。

その後中世には東国武家から厚く崇敬され、建武4年1月7日(1337年2月8日)には、足利尊氏の実弟直義が戦捷祈願に対する報賽の書状を奉納した(神社所蔵の伝直義執筆書状)。

戦国時代には太田資長(道灌)の崇敬を受け、天正16年7月24日(1588年9月14日)には、北条氏直による柴村に対しての制札が発布された(この制札も神社所蔵)。

また、豊臣秀吉も天正18年7月19日(1590年8月18日)あたりに、奥羽平定のために江戸を進発するに際して戦捷を祈願した。

徳川家康も同年8月1日(8月30日)、江戸入府に際して社参、翌19年11月28日(1592年1月12日)、武蔵国日比谷郷に社領15石を寄進した。

慶長3年(1598年)8月、増上寺が当社の旧鎮座地(芝公園)へ移転することとなったため、現在地へ奉遷し、翌々5年(1600年)9月1日、家康は関ヶ原出陣に際し、社参して戦捷祈願をした。

慶長19年から20年にかけての大坂の役では、徳川方の戦捷祈願をするべく、将軍秀忠の正室お江与の方(崇源院)の代参として、家光の乳母である春日局が社参をしている。

以後、歴代将軍家・幕府の庇護を受け、社殿の造営・修復などは幕命により執行するとともに、幕府より種々の祈祷依頼があり、大名による参詣等諸侯からも崇敬を受けた。

また市井においては、東海道沿線で江戸市中と市外の境界線上(近くに金杉橋あり)に鎮座し、増上寺も隣接することから、江戸時代に入って参詣者が増えた。

江戸から出府する旅人にとっては道中無事を、入府する旅人にとっては道中無事の報賽をといった祈願が行われた。

さらに江戸時代にはお蔭参りといわれる伊勢参宮が数多く見受けられるが、高額な旅費と長期間の旅程を要し、容易に行うことは難しかったため、代わりに当社への参詣者が増えていったと考えられる。

そのため、茶屋、揚弓場、吹き矢、花の露屋(化粧品)、角力、手妻(手品)、軽業、剣術、富籤興行、岡場所・陰間などの風俗店や、芝居などの見世物小屋で賑わい、特に芝神明の太々餅は土産物として評判を呼び、名物となった。

さらに、江戸で出版された娯楽絵本の版元で、地本問屋として名を馳せた和泉屋が天明頃(1781-89年)には当社近隣に店を構えていたといわれ、この界隈はマスコミの拠点にもなっていた。

なお、大永年間(1521-27年)に近村から出火し、大風に煽られた火災によって類焼したのを始めとして、近世にはしばしば大火に見舞われ、その度に再建されている。

明治元年(1868年)10月、明治天皇東幸の際、本社を内侍所として小休し、年11月8日、准勅祭社に指定された。

明治2年(1869年)の長雨に際しては7月3日(8月10日)に朝廷より止雨祈祷の依頼があるなど厚遇されたが、明治3年(1870年)、准勅祭社制度の廃止に伴い、東京府の府社となった。

明治9年(1876年)1月4日、火災により焼失したため、翌10年(1877年)3月に再建された。

大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により倒壊延焼したため、昭和2年(1927年)8月、本殿など主要建造物を再建し、同13年(1938年)12月には完全再建された。

しかし昭和20年(1945年)5月26日に東京大空襲により焼失。戦後は神社本庁に参加し、昭和22年(1947年)1月13日に本殿再建、昭和39年(1964年)9月12日には本殿再造営が完工した。

平成17年(2005年)9月16日の例祭では、鎮座1000年を祝う「芝大神宮壱千年祭」を斎行し、併せて社務所などの改築を執り行った。

以前までは多くの境内社があったが、現在ではすべて本殿に合祀されている。

その中に、天満神社(菅原道真)は江戸期から飯倉天神として親しまれ、いわゆる江戸二十五天神には諸説あるが、当社は、江戸期から明治期にかけての書籍である下記に記載されている、江戸において極めて有力な天神信仰の拠点の一つ。

『武陽菅原詣』収録の天神
東都二十五天神(『卯花園漫録』)
府内天神(『江戸拾葉』)
菅祠二十五社(『霊神仏之記』
御内府及び御内府近辺二十五天神(『天満宮御伝記略』)
東京天満宮二十五社(『菅原大神千年大祭図会』)

なお、横浜市西区の伊勢山皇大神宮、埼玉県所沢市の所澤神明社も「関東のお伊勢さま」とされ、千葉県船橋市の船橋大神宮とも呼ばれる意富比神社は「千葉のお伊勢さん」と呼ばれる。

日本七神明は当社の他、朝日神明宮日向大神宮、難波神明宮(露天神社の境内社)、神明宮(金沢市)仁科神明宮、出羽湯殿山神明宮(不詳)を言う。

全国東照宮連合会に加盟している。

【ご利益】
天にあって照り輝きなさる偉大な神(公式HP
芝大神宮 - 頼朝、直義、秀吉、家康が崇敬した「関東のお伊勢様」、鎮座1000年
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