讃岐の本宮、江戸期に爆発的に庶民に広まった信仰は今も脈々と
[住所]香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1
[電話]0877-75-2121
金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町にある神社。こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれる。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 讃岐国 多度郡「雲気神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では国幣中社。
現在は神社本庁の別表神社。さぬき十五社の13番。東京都文京区本郷に、東京分社がある。
明治維新の神仏分離・廃仏毀釈が実施される以前は真言宗の象頭山松尾寺金光院であり、神仏習合で象頭山金毘羅大権現と呼ばれた。
現在は宗教法人金刀比羅本教の総本部。全国の金刀比羅神社・琴平神社・金比羅神社の総本宮。御祭神は大物主命と崇徳天皇。
由緒については二つの説がある。一つは、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするもの。
もう一つは、もともと象頭山にあった真言宗の松尾寺に金毘羅が鎮守神として祀られており、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った。
その際に、天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとするもの。
なお、別の説として、『讃岐生駒記』の当宮の條によれば、式内社「雲気神社」が当宮のことであるという記述がある。他の論社に、善通寺市弘田町の雲氣神社、仲多度郡まんのう町の雲氣八幡宮がある。
長寛元年(1163年)に崇徳上皇が象頭山松尾寺金光院に参籠したことから、修験道の御霊信仰の影響で、永万元年(1165年)には、讃岐国に流されたまま崩御した崇徳天皇も象頭山松尾寺金光院に合祀した。
戦国時代には荒廃していたが、別当となった象頭山松尾寺の宥盛が信仰を広めて、境内を整備した。宥盛は死の直前には御神体を守るために天狗に身を変えたとの伝説もあり、死後は本堂付近に祀られる。
江戸時代初期には、別当の象頭山松尾寺の宥光が参拝の土産物として○に金の印を入れたうちわを作ることを思いつき、大和国より技術者を招いたといわれる。
江戸時代中期に入ると全国の庶民の間へと信仰は広がり、各地で金毘羅講が組織され、金毘羅参りが盛んに行われる。
この頃、金毘羅参りは伊勢の神宮(伊勢神宮)へのお陰参りに次ぐ庶民の憧れだったといわれる。
その様子は、浮世絵『東海道五十三次』の一つである「沼津」に描かれた金毘羅参りの後姿や、滑稽本『東海道中膝栗毛』に書かれた主人公の弥次さんと金毘羅参りの格好をした男との饅頭の食べ比べの話などからも、うかがえる。
瀬戸内海を挟んだ備前国の由加山(現在の由加神社本宮と蓮台寺)と両方参拝する両参りといわれる慣習もそうした人気に拍車をかけたと思われる。
江戸時代末期には「こんぴら船々 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば 四国は 讃州那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現 一度まわれば」との民謡が歌われ始める。
明治元年(1868年)の神仏分離令で金刀比羅宮と改称して神道の神社になり、主祭神の名は大物主神と定められ、相殿(あいどの)に崇徳天皇を祀った。9月13日に勅祭神社とされた。
象頭山松尾寺金光院は廃されて、祀られていた宥盛は厳魂彦命と名を変え、明治38年(1905年)には現在の奥社へと遷座した。
それまで金毘羅大権現の本地仏として祀られていた本尊十一面観音像は信仰の対象から外されたが、社宝として現在も観音堂に納められている。
不動明王、毘沙門天の二体の脇侍仏は破却の危機に直面したが、象頭山松尾寺の末寺である万福院住職宥明によって救い出された。
その後、所在は転々としたが、明治15年(1882年)、裸祭で知られる岡山市の真言宗寺院、西大寺の住職光阿によって同寺に勧請され、改めて金毘羅大権現の本地仏として祀られ、現在に至る。
松尾寺は、塔頭であった普門院が再興し、法灯を継承している。
古くから信仰を集め、こんぴら講に代表される金毘羅信仰を後世に伝えるため、昭和44年(1969年)8月5日、宗教法人金刀比羅本教の設立認可を受け、金刀比羅本教の総本宮となった。
総本部は金刀比羅宮の大門近くにある。金刀比羅本教は神社本庁に属さない独立した包括宗教法人であるが、金刀比羅宮自体は神社本庁の被包括法人であり、別表神社に指定されている。
海上自衛隊の護衛艦(練習艦)「しまゆき」、護衛艦(退役)「しらゆき」、輸送艦「しもきた」、潜水艦救難艦「ちはや」の艦内神社に分祀したという。
「しらゆき」の艦内神社は他に、三嶋大社・亀山神社・由加神社本宮を勧請していた。「しもきた」の艦内神社は田名部神社を、「ちはや」の艦内神社は大山祇神社、それぞれ勧請している。
「象頭山、金刀比羅宮、金丸座など」(2007年)として、美しい日本の歴史的風土100選の一つにも選ばれている。秋は紅葉の名所。
当社は臼田甚五郎監修『日本神社一00選』に「日本神社100選」として、また、進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。
2015年4月ごろ、奈良・京都など世界遺産含む寺社に油のようなものがまかれていた被害が相次いだ事件で、被害に遭った一社。
【ご利益】
農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など(公式HP)
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金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町にある神社。こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれる。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 讃岐国 多度郡「雲気神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では国幣中社。
現在は神社本庁の別表神社。さぬき十五社の13番。東京都文京区本郷に、東京分社がある。
明治維新の神仏分離・廃仏毀釈が実施される以前は真言宗の象頭山松尾寺金光院であり、神仏習合で象頭山金毘羅大権現と呼ばれた。
現在は宗教法人金刀比羅本教の総本部。全国の金刀比羅神社・琴平神社・金比羅神社の総本宮。御祭神は大物主命と崇徳天皇。
由緒については二つの説がある。一つは、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするもの。
もう一つは、もともと象頭山にあった真言宗の松尾寺に金毘羅が鎮守神として祀られており、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った。
その際に、天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとするもの。
なお、別の説として、『讃岐生駒記』の当宮の條によれば、式内社「雲気神社」が当宮のことであるという記述がある。他の論社に、善通寺市弘田町の雲氣神社、仲多度郡まんのう町の雲氣八幡宮がある。
長寛元年(1163年)に崇徳上皇が象頭山松尾寺金光院に参籠したことから、修験道の御霊信仰の影響で、永万元年(1165年)には、讃岐国に流されたまま崩御した崇徳天皇も象頭山松尾寺金光院に合祀した。
戦国時代には荒廃していたが、別当となった象頭山松尾寺の宥盛が信仰を広めて、境内を整備した。宥盛は死の直前には御神体を守るために天狗に身を変えたとの伝説もあり、死後は本堂付近に祀られる。
江戸時代初期には、別当の象頭山松尾寺の宥光が参拝の土産物として○に金の印を入れたうちわを作ることを思いつき、大和国より技術者を招いたといわれる。
江戸時代中期に入ると全国の庶民の間へと信仰は広がり、各地で金毘羅講が組織され、金毘羅参りが盛んに行われる。
この頃、金毘羅参りは伊勢の神宮(伊勢神宮)へのお陰参りに次ぐ庶民の憧れだったといわれる。
その様子は、浮世絵『東海道五十三次』の一つである「沼津」に描かれた金毘羅参りの後姿や、滑稽本『東海道中膝栗毛』に書かれた主人公の弥次さんと金毘羅参りの格好をした男との饅頭の食べ比べの話などからも、うかがえる。
瀬戸内海を挟んだ備前国の由加山(現在の由加神社本宮と蓮台寺)と両方参拝する両参りといわれる慣習もそうした人気に拍車をかけたと思われる。
江戸時代末期には「こんぴら船々 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば 四国は 讃州那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現 一度まわれば」との民謡が歌われ始める。
明治元年(1868年)の神仏分離令で金刀比羅宮と改称して神道の神社になり、主祭神の名は大物主神と定められ、相殿(あいどの)に崇徳天皇を祀った。9月13日に勅祭神社とされた。
象頭山松尾寺金光院は廃されて、祀られていた宥盛は厳魂彦命と名を変え、明治38年(1905年)には現在の奥社へと遷座した。
それまで金毘羅大権現の本地仏として祀られていた本尊十一面観音像は信仰の対象から外されたが、社宝として現在も観音堂に納められている。
不動明王、毘沙門天の二体の脇侍仏は破却の危機に直面したが、象頭山松尾寺の末寺である万福院住職宥明によって救い出された。
その後、所在は転々としたが、明治15年(1882年)、裸祭で知られる岡山市の真言宗寺院、西大寺の住職光阿によって同寺に勧請され、改めて金毘羅大権現の本地仏として祀られ、現在に至る。
松尾寺は、塔頭であった普門院が再興し、法灯を継承している。
古くから信仰を集め、こんぴら講に代表される金毘羅信仰を後世に伝えるため、昭和44年(1969年)8月5日、宗教法人金刀比羅本教の設立認可を受け、金刀比羅本教の総本宮となった。
総本部は金刀比羅宮の大門近くにある。金刀比羅本教は神社本庁に属さない独立した包括宗教法人であるが、金刀比羅宮自体は神社本庁の被包括法人であり、別表神社に指定されている。
海上自衛隊の護衛艦(練習艦)「しまゆき」、護衛艦(退役)「しらゆき」、輸送艦「しもきた」、潜水艦救難艦「ちはや」の艦内神社に分祀したという。
「しらゆき」の艦内神社は他に、三嶋大社・亀山神社・由加神社本宮を勧請していた。「しもきた」の艦内神社は田名部神社を、「ちはや」の艦内神社は大山祇神社、それぞれ勧請している。
「象頭山、金刀比羅宮、金丸座など」(2007年)として、美しい日本の歴史的風土100選の一つにも選ばれている。秋は紅葉の名所。
当社は臼田甚五郎監修『日本神社一00選』に「日本神社100選」として、また、進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。
2015年4月ごろ、奈良・京都など世界遺産含む寺社に油のようなものがまかれていた被害が相次いだ事件で、被害に遭った一社。
【ご利益】
農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など(公式HP)
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・『日本の神社 15号 (金刀比羅宮) [分冊百科]』 - 詳しくとてもわかりやすかった
・香川県の別表神社 | 別表神社とは? - 神社本庁に属する神社の現代版官国幣社
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