「いかすり」、上方落語寄席発祥、陶器神社でも有名な摂津国一宮
[住所]大阪府大阪市中央区久太郎町
[電話]06-6251-4792
坐摩神社(いかすりじんじゃ)は、大阪府大阪市中央区にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 西成郡「坐摩神社」に比定される式内社(大社)。「全国一の宮会」に加盟しており、摂津国一宮とされ、近代社格では官幣中社、現在は神社本庁の別表神社。
一般には「ざまじんじゃ」と読まれることが多く、地元では「ざまさん」の通称で呼ばれる。住居守護の神、旅行安全の神、安産の神として信仰されている。
大阪市中心部の船場にある古い神社で、同地の守護神的存在。南御堂の西隣に位置し、境内は東向きで、大小三つの鳥居が横に組み合わさった珍しい「三ツ鳥居」がある。
御祭神は以下の五柱で、「坐摩神」と総称する。『延喜式』神名帳 宮中京中 宮中坐神 神祇官西院坐御巫等祭神「座摩巫祭神五座」と同一。
・生井神(いくゐのかみ)…井水の神(生命力のある井戸水の神)
・福井神(さくゐのかみ)…井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神)
・綱長井神(つながゐのかみ)…井水の神(深く清らかな井戸水の神)
・波比祇神(はひきのかみ)…竃神(屋敷神。庭の神)
・阿須波神 (はすはのかみ)…竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神)
御祭神五柱は、『古語拾遺』等によると初代神武天皇が高皇産霊神・天照大神の神勅を受けて宮中に祀ったのが起源とされ、神祇官西院で坐摩巫(いかすりのみかんなぎ)によって祀られていた。
『延喜式』によれば、坐摩巫には都下国造(つげのくにのみやつこ)の7歳以上の童女を充てるとされ、西から来る穢れを祓う儀式を行うといわれる。
都下とは、当社が最初にあった淀川河口の地で、摂津国の菟餓野(とがの、都下野とも。現在の上町台地一帯)を指すと見られる。
世襲宮司の渡辺氏はこの都下国造の末裔で、滝口武者の嵯峨源氏の流れを汲むともいわれる。
また、菟餓野に関しては、等乃伎神社などとの位置関係が指摘されることがある。
「いかすり(ゐかすり)」の語源には諸説あるが、当社では、「居住地を守ること」という意味の「居所知」(ゐかしり)の転と説明。また、『延喜式』には「さかすり」の訓も記されている。
当社の始まりは、神功皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に御祭神を祀ったことだとされる。今でも旧社地であった当社行宮には「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている。
第15代応神天皇以降、第16代仁徳天皇の難波高津宮含め、代々の難波宮の宮城近くに鎮座し、同じく神祇官西院で祀られた生嶋巫祭神二座と同一の御祭神を祀る大阪市天王寺区の生國魂神社とともに重視された。
『延喜式』神名帳では摂津国西成郡唯一の式内社で、大社に列し、大阪市住吉区の住吉大社と同じく摂津国一宮を称している。
『万葉集』の中には、難波津から西国へ向かう防人が旅の安全を当社に祈る歌がある。創建時の社地は現在と異なり、渡辺津・窪津・大江などと呼ばれたかつての淀川河口である。
旧社地は遷座後に御旅所が置かれた現在の中央区石町に推定され、天神橋 - 天満橋間の南、近世以降「八軒家」と呼ばれる地に該当する。
なお、石町には摂津国の国府も置かれており、町名は国府の転訛と言われている。
平安時代後期には源融にはじまる嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)が渡辺津に住んで当社を掌り渡辺を名字とし、渡辺氏を起こした。
渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、港に立地することから水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となる。
渡辺津は窪津ともよばれ、京からの船が着く熊野古道の基点でもあった。熊野三山への参詣道沿いに立っていた「熊野九十九王子」のうち、最初の「窪津王子」は当社行宮の場所にあったと思われる。
天正11年(1583年)の大坂城築城に際して、西横堀川に近い現在地に遷座した。その際の移住で、一部の人が創建したのが浪速神社で、一部の人が崇敬したのが白木神社。
現在の鎮座地は、本町通にも近く、多くの物売りや見せ物が門前に集まった。特に古着屋は「坐摩の前の古手屋」として名高く、上方落語にも「古手買」「壺算」などで登場する。
また初代桂文治が始めて当社で寄席を開いたとされている。この神社の近くで後の「そごう」が古手屋として生まれ、船場が繊維の町として発展するきっかけになった。
平成23年(2011年)10月19日、初代桂文治が寄席を開いた故事に則り、当社境内に「上方落語寄席発祥の地」の顕彰記念石碑が建立され、除幕式が執り行われた。
また西横堀川沿いには陶器問屋が並んだが、当社の末社に陶器神社があることによる。
【ご利益】
住居守護の神、旅行安全の神、安産の神
【関連記事】
・『延喜式』祝詞とは? - 祈念祭・六月月次などに記載されている神々と神社
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・近代社格の官幣中社とは? - 官幣大社、国幣大社に次ぐ第三の位置か、国幣大社と同格か
・神社の創建年代 - 神代から、神武・神功・継体、そして昭和期まで、主な神社を順に並べた
・『日本の神社全国版(89) 2015年 10/27 号 [雑誌]』 - 「大阪の古き歴史を垣間見る」
・大阪府の別表神社 | 別表神社とは? - 神社本庁に属する神社の現代版官国幣社
・大阪府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、大阪府に鎮座している神社の一覧
『延喜式神名帳』神祇官西院23坐の主な関連社
・御巫等祭神八座……大宮売神社(京都府京丹後市)
・座摩巫祭神五座……坐摩神社(大阪市中央区)
・御門巫祭神八座……櫛石窓神社(兵庫県篠山市)
・生嶋巫祭神二座……生國魂神社(大阪市天王寺区)
[電話]06-6251-4792
坐摩神社(いかすりじんじゃ)は、大阪府大阪市中央区にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 西成郡「坐摩神社」に比定される式内社(大社)。「全国一の宮会」に加盟しており、摂津国一宮とされ、近代社格では官幣中社、現在は神社本庁の別表神社。
一般には「ざまじんじゃ」と読まれることが多く、地元では「ざまさん」の通称で呼ばれる。住居守護の神、旅行安全の神、安産の神として信仰されている。
大阪市中心部の船場にある古い神社で、同地の守護神的存在。南御堂の西隣に位置し、境内は東向きで、大小三つの鳥居が横に組み合わさった珍しい「三ツ鳥居」がある。
御祭神は以下の五柱で、「坐摩神」と総称する。『延喜式』神名帳 宮中京中 宮中坐神 神祇官西院坐御巫等祭神「座摩巫祭神五座」と同一。
・生井神(いくゐのかみ)…井水の神(生命力のある井戸水の神)
・福井神(さくゐのかみ)…井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神)
・綱長井神(つながゐのかみ)…井水の神(深く清らかな井戸水の神)
・波比祇神(はひきのかみ)…竃神(屋敷神。庭の神)
・阿須波神 (はすはのかみ)…竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神)
御祭神五柱は、『古語拾遺』等によると初代神武天皇が高皇産霊神・天照大神の神勅を受けて宮中に祀ったのが起源とされ、神祇官西院で坐摩巫(いかすりのみかんなぎ)によって祀られていた。
『延喜式』によれば、坐摩巫には都下国造(つげのくにのみやつこ)の7歳以上の童女を充てるとされ、西から来る穢れを祓う儀式を行うといわれる。
都下とは、当社が最初にあった淀川河口の地で、摂津国の菟餓野(とがの、都下野とも。現在の上町台地一帯)を指すと見られる。
世襲宮司の渡辺氏はこの都下国造の末裔で、滝口武者の嵯峨源氏の流れを汲むともいわれる。
また、菟餓野に関しては、等乃伎神社などとの位置関係が指摘されることがある。
「いかすり(ゐかすり)」の語源には諸説あるが、当社では、「居住地を守ること」という意味の「居所知」(ゐかしり)の転と説明。また、『延喜式』には「さかすり」の訓も記されている。
当社の始まりは、神功皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に御祭神を祀ったことだとされる。今でも旧社地であった当社行宮には「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている。
第15代応神天皇以降、第16代仁徳天皇の難波高津宮含め、代々の難波宮の宮城近くに鎮座し、同じく神祇官西院で祀られた生嶋巫祭神二座と同一の御祭神を祀る大阪市天王寺区の生國魂神社とともに重視された。
『延喜式』神名帳では摂津国西成郡唯一の式内社で、大社に列し、大阪市住吉区の住吉大社と同じく摂津国一宮を称している。
『万葉集』の中には、難波津から西国へ向かう防人が旅の安全を当社に祈る歌がある。創建時の社地は現在と異なり、渡辺津・窪津・大江などと呼ばれたかつての淀川河口である。
旧社地は遷座後に御旅所が置かれた現在の中央区石町に推定され、天神橋 - 天満橋間の南、近世以降「八軒家」と呼ばれる地に該当する。
なお、石町には摂津国の国府も置かれており、町名は国府の転訛と言われている。
平安時代後期には源融にはじまる嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)が渡辺津に住んで当社を掌り渡辺を名字とし、渡辺氏を起こした。
渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、港に立地することから水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となる。
渡辺津は窪津ともよばれ、京からの船が着く熊野古道の基点でもあった。熊野三山への参詣道沿いに立っていた「熊野九十九王子」のうち、最初の「窪津王子」は当社行宮の場所にあったと思われる。
天正11年(1583年)の大坂城築城に際して、西横堀川に近い現在地に遷座した。その際の移住で、一部の人が創建したのが浪速神社で、一部の人が崇敬したのが白木神社。
現在の鎮座地は、本町通にも近く、多くの物売りや見せ物が門前に集まった。特に古着屋は「坐摩の前の古手屋」として名高く、上方落語にも「古手買」「壺算」などで登場する。
また初代桂文治が始めて当社で寄席を開いたとされている。この神社の近くで後の「そごう」が古手屋として生まれ、船場が繊維の町として発展するきっかけになった。
平成23年(2011年)10月19日、初代桂文治が寄席を開いた故事に則り、当社境内に「上方落語寄席発祥の地」の顕彰記念石碑が建立され、除幕式が執り行われた。
また西横堀川沿いには陶器問屋が並んだが、当社の末社に陶器神社があることによる。
【ご利益】
住居守護の神、旅行安全の神、安産の神
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・近代社格の官幣中社とは? - 官幣大社、国幣大社に次ぐ第三の位置か、国幣大社と同格か
・神社の創建年代 - 神代から、神武・神功・継体、そして昭和期まで、主な神社を順に並べた
・『日本の神社全国版(89) 2015年 10/27 号 [雑誌]』 - 「大阪の古き歴史を垣間見る」
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・大阪府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、大阪府に鎮座している神社の一覧
『延喜式神名帳』神祇官西院23坐の主な関連社
・御巫等祭神八座……大宮売神社(京都府京丹後市)
・座摩巫祭神五座……坐摩神社(大阪市中央区)
・御門巫祭神八座……櫛石窓神社(兵庫県篠山市)
・生嶋巫祭神二座……生國魂神社(大阪市天王寺区)
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