スサノヲの子、五十猛命と妹神二柱が御祭神とされる、佐渡国一宮
[住所]新潟県佐渡市羽茂飯岡550-4
[電話]0259-88-2030
度津神社(わたつじんじゃ)は、新潟県佐渡市羽茂飯岡にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 北陸道神 佐渡国 羽茂郡「度津神社」に比定される式内社(小社)。歴史的な一宮としての佐渡国一宮で、近代社格では国幣小社。
現在は神社本庁の別表神社。「全国一の宮会」に加盟している。主祭神は五十猛命(いたけるのみこと)。素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子。
配神は大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、抓津姫命 (つまつひめのみこと)で、いずれも主祭神の妹、素戔嗚尊の娘。伊太祁曽神社(和歌山県和歌山市)と同じ構成の御祭神。
これら兄妹三神は何れも木の文化を司り、林業、建築業、造船業の神。
『佐渡一ノ宮度津神社参拝の栞』によれば、五十猛命は木材による家屋、舟、車の築造技術を盛んにした功徳により、またの名を大屋毘古神(おおやひこのかみ)と呼ばれている。
また造船のほか航海術に秀で、車の普及に当たっては、海上・陸上の交通安全の守護神として崇敬されていると言う。
しかし、異説もある。吉田東伍は著書『大日本地名辞書』において五十猛命説を「附会を免れず」と非難し、「土人は近世、一宮八幡と号し、神宮寺・千光寺之を司れり、隠岐国渡明神あり、此れと一類の神祇ならん」と述べている。
また、社名の「ワタ」は海の古語で、「ワタツ神社」は「海の神の社」という意味となり、もともとは航海・漁労を司る海の神を祀る神社であったとする説もある。
社伝では、五十猛命の父の素戔嗚尊が人々に造船、航海の術を授けたことが当社名の由来としている。
往古の羽茂川洪水により社殿、古文書から別当寺にいたるまでことごとく流失したため、創建の由緒は不詳。
『佐渡國誌』には、寛永18年(1641年)1月21日付けの『飯岡村八幡宮證文之寫』が所収されているが、そこには「殊ひたの内匠立申候両社 仲哀天皇之御宇神祇之書物于今在社に御座候、…」との記述があり、第14代仲哀天皇の御世あるいはそれ以前の創建の可能性がある。
『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、『延喜式神名帳』における佐渡国の式内社記載順によって一宮と呼ばれるようになっている、と述べている。
また『佐渡志』には「延喜式載スル所ノ九社ノ第一ニシテ、…」との記述がある。
『朝野群載 巻6』には、神事に過穢があったことにより祟り給うたので、当社に使者を遣わし中祓いを科して祓い清めるべしとの承暦4年(1080年)6月10日付けの神祇官奏上が記載されている。
寛永18年(1641年)ごろには当社は八幡宮に合祀されており、八幡宮が一宮として主体となっていた可能性がある。
文化13年(1816年)に当社別当神宮寺と畑野町一宮神社別当慶当寺の間に一宮論争が起こった。
その結果として当社別当神宮寺が勝訴し、以後は佐渡国一宮といえば当社と言われるようになったという。東前方に別当神宮寺があった。
なお、当社は臼田甚五郎監修『日本神社一00選』に「日本神社100選補遺」として掲載されている。
【ご利益】
海上・陸上の交通安全の守護神
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度津神社(わたつじんじゃ)は、新潟県佐渡市羽茂飯岡にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 北陸道神 佐渡国 羽茂郡「度津神社」に比定される式内社(小社)。歴史的な一宮としての佐渡国一宮で、近代社格では国幣小社。
現在は神社本庁の別表神社。「全国一の宮会」に加盟している。主祭神は五十猛命(いたけるのみこと)。素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子。
配神は大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、抓津姫命 (つまつひめのみこと)で、いずれも主祭神の妹、素戔嗚尊の娘。伊太祁曽神社(和歌山県和歌山市)と同じ構成の御祭神。
これら兄妹三神は何れも木の文化を司り、林業、建築業、造船業の神。
『佐渡一ノ宮度津神社参拝の栞』によれば、五十猛命は木材による家屋、舟、車の築造技術を盛んにした功徳により、またの名を大屋毘古神(おおやひこのかみ)と呼ばれている。
また造船のほか航海術に秀で、車の普及に当たっては、海上・陸上の交通安全の守護神として崇敬されていると言う。
しかし、異説もある。吉田東伍は著書『大日本地名辞書』において五十猛命説を「附会を免れず」と非難し、「土人は近世、一宮八幡と号し、神宮寺・千光寺之を司れり、隠岐国渡明神あり、此れと一類の神祇ならん」と述べている。
また、社名の「ワタ」は海の古語で、「ワタツ神社」は「海の神の社」という意味となり、もともとは航海・漁労を司る海の神を祀る神社であったとする説もある。
社伝では、五十猛命の父の素戔嗚尊が人々に造船、航海の術を授けたことが当社名の由来としている。
往古の羽茂川洪水により社殿、古文書から別当寺にいたるまでことごとく流失したため、創建の由緒は不詳。
『佐渡國誌』には、寛永18年(1641年)1月21日付けの『飯岡村八幡宮證文之寫』が所収されているが、そこには「殊ひたの内匠立申候両社 仲哀天皇之御宇神祇之書物于今在社に御座候、…」との記述があり、第14代仲哀天皇の御世あるいはそれ以前の創建の可能性がある。
『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、『延喜式神名帳』における佐渡国の式内社記載順によって一宮と呼ばれるようになっている、と述べている。
また『佐渡志』には「延喜式載スル所ノ九社ノ第一ニシテ、…」との記述がある。
『朝野群載 巻6』には、神事に過穢があったことにより祟り給うたので、当社に使者を遣わし中祓いを科して祓い清めるべしとの承暦4年(1080年)6月10日付けの神祇官奏上が記載されている。
寛永18年(1641年)ごろには当社は八幡宮に合祀されており、八幡宮が一宮として主体となっていた可能性がある。
文化13年(1816年)に当社別当神宮寺と畑野町一宮神社別当慶当寺の間に一宮論争が起こった。
その結果として当社別当神宮寺が勝訴し、以後は佐渡国一宮といえば当社と言われるようになったという。東前方に別当神宮寺があった。
なお、当社は臼田甚五郎監修『日本神社一00選』に「日本神社100選補遺」として掲載されている。
【ご利益】
海上・陸上の交通安全の守護神
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