神宮125社、外宮・所管社 毎日汲まれる、祭祀に欠かせない水、井戸の神
[住所]三重県伊勢市豊川町
[電話]-
上御井神社(かみのみいのじんじゃ)は、三重県伊勢市豊川町にある神社。
伊勢の神宮(伊勢神宮)、神宮125社の一社で、豊受大神宮(外宮)の所管社の一社。外宮所管社4社の第3位。伊勢神宮125社めぐりの中で外宮めぐりの一社。外宮の宮域内にある。
外宮の宮域内、高倉山を構成する1山である藤岡山の山裾、外宮末社の大津神社のさらにその奥に鎮座するが、一般の参拝者が立ち入ることができない場所にある。
大津神社から続く小道の行き止まり地点付近から遥拝することになる。
社殿はなく、「御井覆屋」を覆っている。覆屋は二重の板垣に囲まれている。御祭神は上御井鎮守神(かみのみいのまもりのかみ)。外宮の御料水の守護神、御料水を汲み上げる井戸の守護神。
外宮の祭儀の折には、当社にも祭祀が捧げられる。
「上御井」は、神に供える水を汲み上げる井戸。上御井の予備の井戸として下御井神社が祀られている。
『太神宮諸雑事記』には永承5年(1050年)に上御井の水が涸れ、外宮別宮の土宮の前の水、すなわち下御井の水を汲んだと記されている。
上御井に異変が生じた際は朝廷に使いを出し祈謝したと言われ、神聖視されてきた。
神職は毎朝、上御井から桶1杯分の水を汲み上げる。水を汲むときは、浄衣をまとった神職が覆屋の御扉の鍵を開け、片側の御扉のみを開けた状態で柄の長い柄杓を用いて手桶に水を汲む。
神職は御井に自分の姿を映してはならないと言い伝えられてきた。また、伊勢の神宮で醸造する神酒の原料となる水もここから汲み上げられる。
創建は未詳。『止由気宮儀式帳』には神社としての記載はないが、「御井」や「御井神」が記載されている。「御井二所」という記述もあり、当社と下御井神社を表すものと思われる。
『風雅和歌集』に「世々を経て 汲むとも尽きじ 久方の 天より移す をしほ井の水」の短歌が掲載されている。
この歌の「をしほ井」(忍穂井)が当社を意味し、外宮神官家の度会氏の遠祖が高天原から日向国高千穂峰に持ち下り、丹波国天の真名井(参考:籠神社の奥宮である真名井神社)に移され、豊受大神の伊勢国への鎮座に伴い、井戸も移ったという伝承がある。
度会氏が神官を務めていた頃、御饌を用意する役目(御炊物忌=みかしぎのものいみ)は度会氏一族の童女を選んでいたが、御炊物忌を補助する者として物忌父がいた。
物忌父は多くの任務があったが、当社から水を汲んだり、御井の掃除をしたりするのも役割。
『世々のめぐみ』によると、慶安元年(1648年)5月に外宮の火除のために宮域を整理したが、それまでは忍穂井(上御井)のそばまで民家が建っていたという。
明治5年(1872年)6月、教部省は『延喜式神名帳』および『延暦儀式帳』に記載のない神社を一律に神宮所管から外し、度会県および三重県管轄に移行したため、当社も神宮所管から離れることになった。
日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい、常典御饌とも)には当社の水が不可欠であるため、神宮はやむなく新しい井戸を掘って当社の水を遷したが、翌明治6年(1873年)に、当社と下御井神社が外宮所管社に復帰した。明治43年(1910年)10月に覆屋が造り替えられた。
同じく外宮の境内や域内にあるものに、先の土宮、大津神社、下御井神社の他、外宮別宮の多賀宮、、風宮、外宮摂社の度会国御神社、度会大国玉比賣神社、山末神社、外宮末社の伊我理神社、井中神社、、外宮所管社の御酒殿神、四至神がある。
【ご利益】
神宮の聖なる井戸
豊受大神宮(外宮)所管社
・序列1位 御酒殿神 (伊勢市豊川町)
・序列2位 四至神 (伊勢市豊川町)
・序列3位 上御井神社 (伊勢市豊川町)
・序列4位 下御井神社 (伊勢市豊川町)
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上御井神社(かみのみいのじんじゃ)は、三重県伊勢市豊川町にある神社。
伊勢の神宮(伊勢神宮)、神宮125社の一社で、豊受大神宮(外宮)の所管社の一社。外宮所管社4社の第3位。伊勢神宮125社めぐりの中で外宮めぐりの一社。外宮の宮域内にある。
外宮の宮域内、高倉山を構成する1山である藤岡山の山裾、外宮末社の大津神社のさらにその奥に鎮座するが、一般の参拝者が立ち入ることができない場所にある。
大津神社から続く小道の行き止まり地点付近から遥拝することになる。
社殿はなく、「御井覆屋」を覆っている。覆屋は二重の板垣に囲まれている。御祭神は上御井鎮守神(かみのみいのまもりのかみ)。外宮の御料水の守護神、御料水を汲み上げる井戸の守護神。
外宮の祭儀の折には、当社にも祭祀が捧げられる。
「上御井」は、神に供える水を汲み上げる井戸。上御井の予備の井戸として下御井神社が祀られている。
『太神宮諸雑事記』には永承5年(1050年)に上御井の水が涸れ、外宮別宮の土宮の前の水、すなわち下御井の水を汲んだと記されている。
上御井に異変が生じた際は朝廷に使いを出し祈謝したと言われ、神聖視されてきた。
神職は毎朝、上御井から桶1杯分の水を汲み上げる。水を汲むときは、浄衣をまとった神職が覆屋の御扉の鍵を開け、片側の御扉のみを開けた状態で柄の長い柄杓を用いて手桶に水を汲む。
神職は御井に自分の姿を映してはならないと言い伝えられてきた。また、伊勢の神宮で醸造する神酒の原料となる水もここから汲み上げられる。
創建は未詳。『止由気宮儀式帳』には神社としての記載はないが、「御井」や「御井神」が記載されている。「御井二所」という記述もあり、当社と下御井神社を表すものと思われる。
『風雅和歌集』に「世々を経て 汲むとも尽きじ 久方の 天より移す をしほ井の水」の短歌が掲載されている。
この歌の「をしほ井」(忍穂井)が当社を意味し、外宮神官家の度会氏の遠祖が高天原から日向国高千穂峰に持ち下り、丹波国天の真名井(参考:籠神社の奥宮である真名井神社)に移され、豊受大神の伊勢国への鎮座に伴い、井戸も移ったという伝承がある。
度会氏が神官を務めていた頃、御饌を用意する役目(御炊物忌=みかしぎのものいみ)は度会氏一族の童女を選んでいたが、御炊物忌を補助する者として物忌父がいた。
物忌父は多くの任務があったが、当社から水を汲んだり、御井の掃除をしたりするのも役割。
『世々のめぐみ』によると、慶安元年(1648年)5月に外宮の火除のために宮域を整理したが、それまでは忍穂井(上御井)のそばまで民家が建っていたという。
明治5年(1872年)6月、教部省は『延喜式神名帳』および『延暦儀式帳』に記載のない神社を一律に神宮所管から外し、度会県および三重県管轄に移行したため、当社も神宮所管から離れることになった。
日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい、常典御饌とも)には当社の水が不可欠であるため、神宮はやむなく新しい井戸を掘って当社の水を遷したが、翌明治6年(1873年)に、当社と下御井神社が外宮所管社に復帰した。明治43年(1910年)10月に覆屋が造り替えられた。
同じく外宮の境内や域内にあるものに、先の土宮、大津神社、下御井神社の他、外宮別宮の多賀宮、、風宮、外宮摂社の度会国御神社、度会大国玉比賣神社、山末神社、外宮末社の伊我理神社、井中神社、、外宮所管社の御酒殿神、四至神がある。
【ご利益】
神宮の聖なる井戸
豊受大神宮(外宮)所管社
・序列1位 御酒殿神 (伊勢市豊川町)
・序列2位 四至神 (伊勢市豊川町)
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