神宮125社、外宮・摂社 序列12位、船江上社の宮域内に鎮座する水の神
[住所]三重県伊勢市船江1-10-140
[電話]-
河原淵神社(かわらぶちじんじゃ)は、三重県伊勢市船江にある神社。
伊勢の神宮(伊勢神宮)、神宮125社の一社で、豊受大神宮(外宮)の摂社の一社。外宮摂社16社の第12位。伊勢神宮125社めぐりの中で大湊めぐりの一社。
『延喜式神名帳』にある「川原淵神社(伊勢国・度会郡)」に比定される式内社(小社)。
船江上社という神社の宮域内にある。明治維新以降の伊勢の神宮内での考証の結果、船江上社の社地に鎮座することになった。
船江上社の宮域面積は約765坪(約2528.9平方メートル)で、外苑も有していた。うち、河原淵神社の社地は7畝(約694.2平方メートル)。
伊勢の神宮の摂社には、通常賽銭箱が置かれていないが、当社には置かれている。本殿は1重の玉垣に囲まれ、鳥居が1基設置されている。
御祭神は澤姫命(さわひめのみこと)。水の守護神。『神宮典略』では「鳴澤女」の誤りではないかとしつつ、仮に鳴澤女が御祭神であった場合、その理由が不明であり、訝しいとしている。
当社と同じく外宮の摂社である河原神社と、河原神社に同座する毛理神社は「三ッ社」と称され、河原神社は当社の北に鎮座すると古書に記されている。
河原神社は船江の檜尻川沿いにあった檜尻社を社地としていたという説があったが、江戸時代の当社再興時に檜尻社を当社社地に比定したため、更にその北にある伊勢市御薗町新開に再建されることとなった。
当社の創建は不詳であるが、延暦23年(804年)の『止由気宮儀式帳』には既に記載があり、少なくとも古代には祭祀を受けていたことが分かる。
『延喜式神名帳』には、「川原淵神社」と記載され、諸本に「カハラフチ」の読みが振られている。
戦国時代になると建て替えが行われなくなり、荒れるに任せていたが、後代に地元の住民が産土神として祀るようになった。
寛文3年(1663年)、大宮司の河邊精長(大中臣精長)は当社の旧社地を檜尻社であると推定し、檜尻社の境内に当社を再興した。
しかし、当時から檜尻社を旧社地とするのは正しくないのではないかとする見解があった。
『二宮管社沿革考』では現在の伊勢市小木町の曾禰社周辺が「フヂガウ」、すなわち「淵河」と呼ばれていることから、当社を曾禰社に比定し、『神宮典略』では『神名秘書』の記述「字鹽坪向也」の記述に注目し、焼塩を作っていた現在の伊勢市下野町が旧社地だとした。
度会延賢は『両宮摂社参詣記』において、御祭神不詳の船江上社が淵のそばに建ち、「淵の祭」を催行していることから当社の旧社地であるとし、檜尻社は河原神社の旧社地だとした。
明治4年(1871年)11月2日、船江上社の社格が村社となる。明治11年(1878年)12月、檜尻社の鎮座地が川沿いにあり、洪水のおそれがあるとして、船江上社の東隣に当社を遷座した。
当社の遷座を記した『神宮要綱』には、精長による檜尻社への再興について「固より正確なる根據ありてのことにあらず」と記述している。
当社は明治43年(1910年)3月に建て替えられている。
【ご利益】
水の神。川とのかかわりが深く、水運、交通安全
豊受大神宮(外宮)摂社
・序列1位 草奈伎神社 (伊勢市常磐)
・序列2位 大間国生神社 (伊勢市常磐)
・序列3位 度会国御神社 (伊勢市豊川町)
・序列4位 度会大国玉比賣神社 (伊勢市豊川町)
・序列5位 田上大水神社 (伊勢市藤里町)
・序列6位 田上大水御前神社 (伊勢市藤里町)
・序列7位 志等美神社 (伊勢市辻久留)
・序列8位 大河内神社 (伊勢市辻久留)
・序列9位 清野井庭神社 (伊勢市常磐)
・序列10位 高河原神社 (伊勢市宮後)
・序列11位 河原神社 (伊勢市御薗町)
・序列12位 河原淵神社 (伊勢市船江)
・序列13位 山末神社 (伊勢市豊川町)
・序列14位 宇須乃野神社 (伊勢市御薗町)
・序列15位 御食神社 (伊勢市神社港)
・序列16位 小俣神社 (伊勢市小俣町)
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『延喜式神名帳』にある「川原淵神社(伊勢国・度会郡)」に比定される式内社(小社)。
船江上社という神社の宮域内にある。明治維新以降の伊勢の神宮内での考証の結果、船江上社の社地に鎮座することになった。
船江上社の宮域面積は約765坪(約2528.9平方メートル)で、外苑も有していた。うち、河原淵神社の社地は7畝(約694.2平方メートル)。
伊勢の神宮の摂社には、通常賽銭箱が置かれていないが、当社には置かれている。本殿は1重の玉垣に囲まれ、鳥居が1基設置されている。
御祭神は澤姫命(さわひめのみこと)。水の守護神。『神宮典略』では「鳴澤女」の誤りではないかとしつつ、仮に鳴澤女が御祭神であった場合、その理由が不明であり、訝しいとしている。
当社と同じく外宮の摂社である河原神社と、河原神社に同座する毛理神社は「三ッ社」と称され、河原神社は当社の北に鎮座すると古書に記されている。
河原神社は船江の檜尻川沿いにあった檜尻社を社地としていたという説があったが、江戸時代の当社再興時に檜尻社を当社社地に比定したため、更にその北にある伊勢市御薗町新開に再建されることとなった。
当社の創建は不詳であるが、延暦23年(804年)の『止由気宮儀式帳』には既に記載があり、少なくとも古代には祭祀を受けていたことが分かる。
『延喜式神名帳』には、「川原淵神社」と記載され、諸本に「カハラフチ」の読みが振られている。
戦国時代になると建て替えが行われなくなり、荒れるに任せていたが、後代に地元の住民が産土神として祀るようになった。
寛文3年(1663年)、大宮司の河邊精長(大中臣精長)は当社の旧社地を檜尻社であると推定し、檜尻社の境内に当社を再興した。
しかし、当時から檜尻社を旧社地とするのは正しくないのではないかとする見解があった。
『二宮管社沿革考』では現在の伊勢市小木町の曾禰社周辺が「フヂガウ」、すなわち「淵河」と呼ばれていることから、当社を曾禰社に比定し、『神宮典略』では『神名秘書』の記述「字鹽坪向也」の記述に注目し、焼塩を作っていた現在の伊勢市下野町が旧社地だとした。
度会延賢は『両宮摂社参詣記』において、御祭神不詳の船江上社が淵のそばに建ち、「淵の祭」を催行していることから当社の旧社地であるとし、檜尻社は河原神社の旧社地だとした。
明治4年(1871年)11月2日、船江上社の社格が村社となる。明治11年(1878年)12月、檜尻社の鎮座地が川沿いにあり、洪水のおそれがあるとして、船江上社の東隣に当社を遷座した。
当社の遷座を記した『神宮要綱』には、精長による檜尻社への再興について「固より正確なる根據ありてのことにあらず」と記述している。
当社は明治43年(1910年)3月に建て替えられている。
【ご利益】
水の神。川とのかかわりが深く、水運、交通安全
豊受大神宮(外宮)摂社
・序列1位 草奈伎神社 (伊勢市常磐)
・序列2位 大間国生神社 (伊勢市常磐)
・序列3位 度会国御神社 (伊勢市豊川町)
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・序列5位 田上大水神社 (伊勢市藤里町)
・序列6位 田上大水御前神社 (伊勢市藤里町)
・序列7位 志等美神社 (伊勢市辻久留)
・序列8位 大河内神社 (伊勢市辻久留)
・序列9位 清野井庭神社 (伊勢市常磐)
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・序列11位 河原神社 (伊勢市御薗町)
・序列12位 河原淵神社 (伊勢市船江)
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