二大東照宮のライン上にある、徳川家ゆかりの地にある東照宮
[住所]群馬県太田市世良田町3119-1
[電話]0276-52-2045
世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)は、群馬県太田市にある神社。近代社格では郷社。全国に100社以上分布する東照宮の一社。太田市内の他の社寺、館跡とともに「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されている。
元和3年(1617年)に駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、寛永21年(1644年)に上野国世良田へ移築し、創建された。
この地は新田氏の開祖新田義重の居館跡とされ、隣接する長楽寺は義重の供養塔もあり、歴代新田氏本宗家惣領が厚く庇護を与え、大いに栄えていた。
関東に入った徳川氏は、新田氏から分立したこの地を発祥地とする世良田氏の末裔を自称していたため、徳川氏ゆかりの地ともされた。
寛永21年(1644年)、三代将軍徳川家光の命により、徳川氏の遠祖の世良田義季の墓があり、天海僧正が住職をしていた長楽寺の境内に創建された。
歴代徳川将軍から信仰され、江戸時代は世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ…」と俗謡を生むなど大いに栄えた。明治8年(1875年)、神仏分離によって長楽寺から分離し、明治12年(1879年)に郷社に列格した。
社殿は、創建の際に日光東照宮の古社殿を移築したもので、一間社流造の本殿、入母屋造の拝殿、唐門は国の重要文化財に指定されている。他に、元和4年作の大鉄燈籠などが重要文化財の附指定となっている。
天海僧正の意向が強かったと見え、様々なからくりが施されていることで知られる。例えば、東照宮の総本社たる日光東照宮(1)と、家康初葬の地として崇高される久能山東照宮(3)という、この二大東照宮を直線で結ぶライン上に当社(2)は存在している。
三大東照宮の候補の一つ。太田市徳川町の徳川東照宮などを兼務している。徳川東照宮とともに、全国東照宮連合会に加盟している。
【ご利益】
安産、厄・方位・除け、家内安全、商売繁盛、病気平癒など(公式HP)
【関連記事】
・東照宮とは? - 薨去400年の東照大権現たる徳川家康を祀る、全国100社以上が現存する神社
・三大東照宮とは? - 日光・久能山の他に、世良田・仙波・滝山・鳳来山などが候補となる
・群馬県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、群馬県に鎮座している神社の一覧
[電話]0276-52-2045
世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)は、群馬県太田市にある神社。近代社格では郷社。全国に100社以上分布する東照宮の一社。太田市内の他の社寺、館跡とともに「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されている。
元和3年(1617年)に駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、寛永21年(1644年)に上野国世良田へ移築し、創建された。
この地は新田氏の開祖新田義重の居館跡とされ、隣接する長楽寺は義重の供養塔もあり、歴代新田氏本宗家惣領が厚く庇護を与え、大いに栄えていた。
関東に入った徳川氏は、新田氏から分立したこの地を発祥地とする世良田氏の末裔を自称していたため、徳川氏ゆかりの地ともされた。
寛永21年(1644年)、三代将軍徳川家光の命により、徳川氏の遠祖の世良田義季の墓があり、天海僧正が住職をしていた長楽寺の境内に創建された。
歴代徳川将軍から信仰され、江戸時代は世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ…」と俗謡を生むなど大いに栄えた。明治8年(1875年)、神仏分離によって長楽寺から分離し、明治12年(1879年)に郷社に列格した。
社殿は、創建の際に日光東照宮の古社殿を移築したもので、一間社流造の本殿、入母屋造の拝殿、唐門は国の重要文化財に指定されている。他に、元和4年作の大鉄燈籠などが重要文化財の附指定となっている。
天海僧正の意向が強かったと見え、様々なからくりが施されていることで知られる。例えば、東照宮の総本社たる日光東照宮(1)と、家康初葬の地として崇高される久能山東照宮(3)という、この二大東照宮を直線で結ぶライン上に当社(2)は存在している。
三大東照宮の候補の一つ。太田市徳川町の徳川東照宮などを兼務している。徳川東照宮とともに、全国東照宮連合会に加盟している。
【ご利益】
安産、厄・方位・除け、家内安全、商売繁盛、病気平癒など(公式HP)
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