江戸期の考証では最右翼とされた式内社、神代からの水の神
[住所]奈良県吉野郡下市町長谷1-1
[電話]0747-58-0823
丹生川上神社下社(にうかわかみじんじゃかみしゃしもしゃ)は、奈良県吉野郡下市町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「丹生川上神社(大和国・吉野郡)」に比定される式内社(名神大社・月次新嘗)の参考社。
神名帳の他に、『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条に「丹生川上社一座」とあり、祈雨神祭85座に含まれる。
二十二社(下八社)の一社。近代社格では官幣大社、現在は神社本庁の別表神社。
主祭神は闇龗神(くらおかみのかみ)。以前は高龗神(たかおかみのかみ)であったが、大正時代に祭神の変更があり改まった。
なお、「丹生大明神」とも称し、和歌山県かつらぎ町の丹生都比売神社の御祭神である丹生都比売神との関連が指摘される場合がある。
鳥居が洪水によって流されてきたので、それを拾って神体として祀ったのが創祀との伝承があるが、
・当社背後の丹生山山頂に、祭祀遺跡と思しき矩形の石群があること
・社前を流れる丹生川流域には丹生神社が点在すること
・かつては付近に、御酒井・五色井・吹分井・御食井・祈願井・御手洗井・罔象女井・降臨井・鍛人井といった多くの井戸が湧出していたこと
などから、古くからの水神信仰があったとされる。
江戸時代前期以降、式内社の所在地についての考証が盛んになると、当時「丹生大明神」と称していた当社に比定する説が有力となった。
その流れで明治4年(1871年)に官幣大社に列したが、同6年に当時の少宮司江藤正澄が、現在の丹生川上神社上社こそが式内社との意見が出され、翌明治7年に当社を「口の宮」と称し、当時高龗神社と呼ばれていた上社を「奥の宮」と称してこれを所轄するようになった。
明治29年(1896年)に当社を「丹生川上神社下社」、奥の宮を「同上社」と改称し、二社を合わせて「官幣大社 丹生川上神社」とされた。
大正4年(1915年)、現在の丹生川上神社(中社)がある東吉野村出身の森口奈良吉が『丹生川上神社考』を著して、当時蟻通神社と呼ばれていた中社こそが式内社とする説を発表。
大正11年(1922年)、上社・下社は中社に包括される形で、改めて三社を合わせて「官幣大社 丹生川上神社」とされた。当社の主祭神の変更はこの時。
昭和27年(1952年)に三社はそれぞれ独立、式内社の論社とはなっているが、中社が最有力で、当社と上社はそれぞれ参考とされる場合が多い。三社とも旧官幣大社とされる。
例祭は毎年6月1日で、当日氏子の各戸から、「人身御供(ひとみごく)」と称される朴の葉で包んだ鯖の姿鮨が神饌として供えられる風習がある。
また祈止雨祈願がかなった人々が、喜びのあまり神前に集まって踊ったことに起源を持つと伝える神事芸能「太鼓(古)踊り」がある。
なお、当社は進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。
【三社の主祭神】
・丹生川上神社(中社)……罔象女神
・丹生川上神社上社……高龗神
・丹生川上神社下社……闇龗神
いずれも水の神で、上社と下社の主祭神は同一神とされる。
【ご利益】
水の神。祈雨祈晴、万物の根源(奈良県下市町)
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・近代社格制度の官幣大社とは? - 廃絶・未鎮座を除く59社、現時点で65社の神社の一覧表
・詩でたどる日本神社百選 - 進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載された神社
・『日本の神社全国版 2015 年 1/27 号 [雑誌]』 - 丹生川上神社、中社・上社・下社
・奈良県の別表神社 | 別表神社とは? - 神社本庁に属する神社の現代版官国幣社
・奈良県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、奈良県に鎮座している神社の一覧
[電話]0747-58-0823
丹生川上神社下社(にうかわかみじんじゃかみしゃしもしゃ)は、奈良県吉野郡下市町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「丹生川上神社(大和国・吉野郡)」に比定される式内社(名神大社・月次新嘗)の参考社。
神名帳の他に、『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条に「丹生川上社一座」とあり、祈雨神祭85座に含まれる。
二十二社(下八社)の一社。近代社格では官幣大社、現在は神社本庁の別表神社。
主祭神は闇龗神(くらおかみのかみ)。以前は高龗神(たかおかみのかみ)であったが、大正時代に祭神の変更があり改まった。
なお、「丹生大明神」とも称し、和歌山県かつらぎ町の丹生都比売神社の御祭神である丹生都比売神との関連が指摘される場合がある。
鳥居が洪水によって流されてきたので、それを拾って神体として祀ったのが創祀との伝承があるが、
・当社背後の丹生山山頂に、祭祀遺跡と思しき矩形の石群があること
・社前を流れる丹生川流域には丹生神社が点在すること
・かつては付近に、御酒井・五色井・吹分井・御食井・祈願井・御手洗井・罔象女井・降臨井・鍛人井といった多くの井戸が湧出していたこと
などから、古くからの水神信仰があったとされる。
江戸時代前期以降、式内社の所在地についての考証が盛んになると、当時「丹生大明神」と称していた当社に比定する説が有力となった。
その流れで明治4年(1871年)に官幣大社に列したが、同6年に当時の少宮司江藤正澄が、現在の丹生川上神社上社こそが式内社との意見が出され、翌明治7年に当社を「口の宮」と称し、当時高龗神社と呼ばれていた上社を「奥の宮」と称してこれを所轄するようになった。
明治29年(1896年)に当社を「丹生川上神社下社」、奥の宮を「同上社」と改称し、二社を合わせて「官幣大社 丹生川上神社」とされた。
大正4年(1915年)、現在の丹生川上神社(中社)がある東吉野村出身の森口奈良吉が『丹生川上神社考』を著して、当時蟻通神社と呼ばれていた中社こそが式内社とする説を発表。
大正11年(1922年)、上社・下社は中社に包括される形で、改めて三社を合わせて「官幣大社 丹生川上神社」とされた。当社の主祭神の変更はこの時。
昭和27年(1952年)に三社はそれぞれ独立、式内社の論社とはなっているが、中社が最有力で、当社と上社はそれぞれ参考とされる場合が多い。三社とも旧官幣大社とされる。
例祭は毎年6月1日で、当日氏子の各戸から、「人身御供(ひとみごく)」と称される朴の葉で包んだ鯖の姿鮨が神饌として供えられる風習がある。
また祈止雨祈願がかなった人々が、喜びのあまり神前に集まって踊ったことに起源を持つと伝える神事芸能「太鼓(古)踊り」がある。
なお、当社は進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。
【三社の主祭神】
・丹生川上神社(中社)……罔象女神
・丹生川上神社上社……高龗神
・丹生川上神社下社……闇龗神
いずれも水の神で、上社と下社の主祭神は同一神とされる。
【ご利益】
水の神。祈雨祈晴、万物の根源(奈良県下市町)
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