播磨国風土記の編纂1300年記念で、PR活動が進んでいるからでしょうか、最近、播磨に関係する話題をよく目にします。「大王級の石棺」が確認された玉丘古墳(兵庫県・加西市)で、2015年3月21日に現地説明会がありますが、この古墳にちなむ伝説をご紹介。古事記の話ともリンクする、古事記 - 播磨国風土記をつなぐ、切なく悲しい恋物語「根日女伝説」です。画像は玉丘史跡公園の公式サイトにおける「根日女伝説」の紹介ページ(出典:玉丘史跡公園)
後の第二十一代雄略天皇が、おそらくは即位前に、一緒に狩りに出かけた有力皇族のイチノベノオシハに無礼があったとして、ソッコーでキレて凹、殺害してしまった事件で、イチノベノオシハの遺児、二人の兄弟が、古代日本のジャイアンの、恐怖の魔手から逃れるべく、逃避行してたどり着いたのが播磨です。
この兄弟二人こそ、意祁王(おけのみこ)と袁祁王(をけのみこ)。身をやつして、不本意ながら世を忍ぶことに。
しかしそうこうしているうちに時は流れ、播磨の地に、中央から山部連小楯が赴任してきて、兄弟二人が身を隠していた地元の有力者シジムの新築祝いにやって来て、弟の袁祁王の歌から、二人が皇位継承権のある皇族と判明し、二人は皇統が途絶えそうだった都に戻れることになりました。
要約しすぎですが、ここまでは、既報の梅原猛氏が書き下ろした新作能「針間」で詳しく紹介したので、そちらをご参照ください。
以上は古事記にも記載のある話。播磨国風土記では登場人物が若干異なったり、古事記にはない説話が盛り込まれていますが、およそ筋は同じ。以下からは古事記にはなく、播磨国風土記だけの話となります。
都に戻って皇子として迎えられた兄弟二人は、一度播磨に戻って、宮を構えて一時滞在します。その時に出会ったのが、根日女(ねひめ)です。
根日女は、播磨国賀毛の里を治める国造許麻(くにのみやつここま)の娘で、神秘的な美しさと巫女としての不思議な力を持っていました。
当然のことながら、たちまち兄弟二人ともども、根日女にゾッコン。二人とも根日女に求婚します。しかし、仲がよかった兄弟は互いに譲り合ってしまい、調整がつかず、結局二人とも結婚しませんでした。
根日女も二人をおなじくらい愛していたのかもしれません。
そうこうしているうちに、兄弟二人は再び都に戻ることに。都では、古事記にも少し描かれている、ぽっと出の、たまたま見つかった貴種(兄弟二人)に対するやっかみが強かったようで、播磨から都に送り出す形となった根日女もさぞ心配だったのでしょう。
二人の安否を気遣う心労から、根日女は病の床に伏し、そして間もなく亡くなります。
それを知った都の二人、この時、すでに弟の袁祁王は即位しており、第二十三代顕宗天皇になっていたので、天皇と兄の皇子の二人、となりますが、非常に嘆き悲しみました。
根日女のために賀毛の里に大きく美しい墓を築き、手厚く葬りました。当時、表面を美しい玉石で覆われたその墓こそ、今も残る玉丘古墳です。
古事記にはない、二人の皇子の播磨における後日談。美しいお話です。しかし、本当にお話だったのでしょうか?
玉丘古墳の石棺が、国内屈指の大きさや精巧な装飾であることが確認され、「大王級の石棺」とされています。大王と、その兄の皇子に愛された根日女が、“大王級”の石棺に葬られたとしても何もおかしな話ではなく、本当にこの石棺には根日女が葬られていた、のかもしれません。
そもそもこの二人の兄弟、兄・意祁王は後に弟の顕宗天皇崩御後に即位して、第二十四代仁賢天皇になりますが、お墓にまつわるお話が実に多い。
父イチノベノオシハの遺骸を探し出し、墓を築き丁重に葬ったり(宮内庁により古保志塚(滋賀県・東近江市)に治定されている)、父の仇である雄略天皇陵(宮内庁により島泉丸山古墳(円墳)、島泉平塚古墳(方墳)が「丹比高鷲原陵」として治定されている)の破壊を企てたり。
二人が苦汁をなめた地・播磨で出会い、そして愛した根日女のために、1500年の時を経て今なお残る、巨大な前方後円墳を作った、としても、あまり違和感がありません。
歴史学ではこの二人の皇子の物語を、「到底史実とは考えられない」と取り合わないのが普通です。古事記に、そして播磨国風土記に、これだけ明確に記述されており、中央と地方で同じことを描いた資料が存在していることを、史実ではない、とするのであれば、何が史料批判なのかわからなくなるような気がしますが。
ともかく、考古学の方面から完全な実証は難しくても、この古代日本の愛に満ちた美しいラブロマンス・オペラに、現地説明会やその他の機会の参観を通じて、思いを馳せられれば、これこそ古代史ロマン、歴史の醍醐味かな、と思います。
【関連サイト】
・玉丘史跡公園 加西市 - 国の史跡。2015年3月21日の現地説明会会場で、玉丘古墳の所在地
【関連記事】
・播磨国風土記の悲恋物語「根日女伝説」、20歳女性シンガーが作詞して現代風アレンジ
・兵庫・加西の玉丘古墳で84年ぶりに再調査、巨大かつ精緻な「大王級」の長持形石棺を確認
・梅原猛が新作能「針間」を書き下ろし、兄弟皇子の数奇な運命とは? - 播磨国風土記の編纂1300年
後の第二十一代雄略天皇が、おそらくは即位前に、一緒に狩りに出かけた有力皇族のイチノベノオシハに無礼があったとして、ソッコーでキレて凹、殺害してしまった事件で、イチノベノオシハの遺児、二人の兄弟が、古代日本のジャイアンの、恐怖の魔手から逃れるべく、逃避行してたどり着いたのが播磨です。
この兄弟二人こそ、意祁王(おけのみこ)と袁祁王(をけのみこ)。身をやつして、不本意ながら世を忍ぶことに。
しかしそうこうしているうちに時は流れ、播磨の地に、中央から山部連小楯が赴任してきて、兄弟二人が身を隠していた地元の有力者シジムの新築祝いにやって来て、弟の袁祁王の歌から、二人が皇位継承権のある皇族と判明し、二人は皇統が途絶えそうだった都に戻れることになりました。
要約しすぎですが、ここまでは、既報の梅原猛氏が書き下ろした新作能「針間」で詳しく紹介したので、そちらをご参照ください。
以上は古事記にも記載のある話。播磨国風土記では登場人物が若干異なったり、古事記にはない説話が盛り込まれていますが、およそ筋は同じ。以下からは古事記にはなく、播磨国風土記だけの話となります。
都に戻って皇子として迎えられた兄弟二人は、一度播磨に戻って、宮を構えて一時滞在します。その時に出会ったのが、根日女(ねひめ)です。
根日女は、播磨国賀毛の里を治める国造許麻(くにのみやつここま)の娘で、神秘的な美しさと巫女としての不思議な力を持っていました。
当然のことながら、たちまち兄弟二人ともども、根日女にゾッコン。二人とも根日女に求婚します。しかし、仲がよかった兄弟は互いに譲り合ってしまい、調整がつかず、結局二人とも結婚しませんでした。
根日女も二人をおなじくらい愛していたのかもしれません。
そうこうしているうちに、兄弟二人は再び都に戻ることに。都では、古事記にも少し描かれている、ぽっと出の、たまたま見つかった貴種(兄弟二人)に対するやっかみが強かったようで、播磨から都に送り出す形となった根日女もさぞ心配だったのでしょう。
二人の安否を気遣う心労から、根日女は病の床に伏し、そして間もなく亡くなります。
それを知った都の二人、この時、すでに弟の袁祁王は即位しており、第二十三代顕宗天皇になっていたので、天皇と兄の皇子の二人、となりますが、非常に嘆き悲しみました。
根日女のために賀毛の里に大きく美しい墓を築き、手厚く葬りました。当時、表面を美しい玉石で覆われたその墓こそ、今も残る玉丘古墳です。
古事記にはない、二人の皇子の播磨における後日談。美しいお話です。しかし、本当にお話だったのでしょうか?
玉丘古墳の石棺が、国内屈指の大きさや精巧な装飾であることが確認され、「大王級の石棺」とされています。大王と、その兄の皇子に愛された根日女が、“大王級”の石棺に葬られたとしても何もおかしな話ではなく、本当にこの石棺には根日女が葬られていた、のかもしれません。
そもそもこの二人の兄弟、兄・意祁王は後に弟の顕宗天皇崩御後に即位して、第二十四代仁賢天皇になりますが、お墓にまつわるお話が実に多い。
父イチノベノオシハの遺骸を探し出し、墓を築き丁重に葬ったり(宮内庁により古保志塚(滋賀県・東近江市)に治定されている)、父の仇である雄略天皇陵(宮内庁により島泉丸山古墳(円墳)、島泉平塚古墳(方墳)が「丹比高鷲原陵」として治定されている)の破壊を企てたり。
二人が苦汁をなめた地・播磨で出会い、そして愛した根日女のために、1500年の時を経て今なお残る、巨大な前方後円墳を作った、としても、あまり違和感がありません。
歴史学ではこの二人の皇子の物語を、「到底史実とは考えられない」と取り合わないのが普通です。古事記に、そして播磨国風土記に、これだけ明確に記述されており、中央と地方で同じことを描いた資料が存在していることを、史実ではない、とするのであれば、何が史料批判なのかわからなくなるような気がしますが。
ともかく、考古学の方面から完全な実証は難しくても、この古代日本の愛に満ちた美しいラブロマンス・オペラに、現地説明会やその他の機会の参観を通じて、思いを馳せられれば、これこそ古代史ロマン、歴史の醍醐味かな、と思います。
【関連サイト】
・玉丘史跡公園 加西市 - 国の史跡。2015年3月21日の現地説明会会場で、玉丘古墳の所在地
【関連記事】
・播磨国風土記の悲恋物語「根日女伝説」、20歳女性シンガーが作詞して現代風アレンジ
・兵庫・加西の玉丘古墳で84年ぶりに再調査、巨大かつ精緻な「大王級」の長持形石棺を確認
・梅原猛が新作能「針間」を書き下ろし、兄弟皇子の数奇な運命とは? - 播磨国風土記の編纂1300年
コメント