・所在地:大阪府高槻市大字奈佐原

・時 期:7世紀
・時 代:古墳時代終末期
・形 状:-
・特 徴:-
・指 定:国の史跡

【概要】
あぶやまこふん。阿武山(標高281.1メートル)の山腹、稜線上にある古墳。「貴人の墓」という別名でも知られる。藤原鎌足の陵墓であるとの説が有力。

1934年に京都大学の地震観測施設の建設中、土を掘り下げていて瓦や巨石につきあたったことから偶然に発見された。通常の古墳にあるような盛り土はなく、浅い溝で直径82メートルの円形の墓域を形成していた。

墓室は墓域中心の地表のすぐ下にあり、切石で組まれて内側を漆喰で塗り固められており、上を瓦で覆われ地表と同じ高さになるように埋め戻されていた。

棺の中には、60歳前後の男性の、肉や毛髪、衣装も残存した状態のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていた。鏡や剣、玉などは副葬されていなかったが、ガラス玉を編んで作った玉枕のほか、遺体が錦を身にまとっていたこと、胸から顔面、頭にかけて金の糸がたくさん散らばっていたことが確かめられた。

戦前のこの時期、大きな反響を呼び、多数の一般人が駆け付けたこと、京都大学理学部・地震観測所という畑違いの部門による発掘となったこと、大阪府や京都大学考古学研究室とそれにともなって対立したこと、被葬者がきわめて高位の人物であることは間違いなく、皇室につながる可能性もあり、調査の継続は冒涜になるとの観点から、埋め戻された。

1982年、埋め戻す前のエックス線写真の原板が地震観測所から見つかった。1987年分析の結果、被葬者は腰椎などを骨折する大けがをし、治療されてしばらくは生きていたものの、寝たきり状態のまま二次的な合併症で死亡したこと、金の糸の分布状態からこれが冠の刺繍糸だったことが判明。

しかも漆の棺に葬られていたことや玉枕を敷いていたことなども考えると、被葬者は最上位クラスの人物で、死因(落馬後に死去)と一致すること、この冠がおそらく当時の最高冠位である織冠であることから、被葬者はほぼ藤原鎌足にちがいない、とされた。

しかし被葬者として鎌足の同時代人の蘇我倉山田石川麻呂や阿倍倉梯麻呂(内麻呂)をあげる説もあり、特定にはまだ至っていない。

なお、奈良県桜井市の談山神社には、鎌足の遺骸を談山神社の近くに改葬したという伝承が伝わっている。

【関連サイト】
阿武山古墳 - Wikipedia

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