前方後円墳国家 (角川選書)
・刊行:2003/7/10
・著者:広瀬和雄
・出版:角川書店

・『前方後円墳国家 (角川選書)』をアマゾンで購入

3世紀なかごろから7世紀初めまでの350年ほどの間に、列島各地に約5200基も造営された前方後円墳。

その特質は「見せる王権」としての可視性、形状の画一性、大山古墳(仁徳陵)をピークとする墳丘規模の階層性にあり、大和政権を中心とした首長層ネットワークの「国家」と呼ぶべき利益共同体を表象するものだった。

弥生から古墳時代の歴史を国家という枠組みで捉え直し、新たな歴史像を打ち立てる。

前方後円墳とは何か。なぜ同時多発的に一気に造営されたのか。この古代史上の謎に正面から切り込み、3世紀中頃からの前方後円墳の時代を、利益共同体の「国家」と提唱し、まったく新たな歴史像を提示する。

この論は、『前方後円墳の世界 (岩波新書)』にも引き継がれていく。

管理人了
前方後円墳を国家論交えて議論。古墳時代を、続く律令体制の前段としてとらえるのではなく、そこにはその時代の要請に応じた勃興と発展、衰退があるのであって、「歴史は発展するもの」という考えだけでは見通せない深みがあることを、前方後円墳の開始と展開、そして衰退が語っていると言える。

広瀬の所論には勉強させられることが多いが、前方後円墳の列島での普及は、例えば後の時代の各国における国分寺の建設に似ているような気がしてならない。もちろん、国分寺の時代とは違い、勢力下に編入したクニから順次、前方後円墳にまつわる概念のレクチャーや導入・建設指導が行われたのだろうが、国家統一的なシンボルとしての前方後円墳がそこにはみられる。

「うちの組に入りたいなら、うちの組の流儀『前方後円墳』を学びな」という、当時の大和朝廷にはすでに確固とした導入マニュアルとカリキュラムが用意されていたのだろう。

そしてこの経験は、後年の国分寺建設など、地方統制に役立ち、その蓄積となったように思われる。奈良に築かれた前方後円墳が、奈良時代に普通に破壊されるなどは、前方後円墳が行政ハードとしての役割を担ってきたと同時に、当時の流行に過ぎなかった、根幹は他にあったのだ、ということを象徴しているようだ。