日本書紀や万葉集に登場する古代の人工池「磐余池(いわれいけ)」を巡って、千田稔・県立図書情報館長(歴史地理学)が2015年2月22日、1947年に米軍が撮影した桜井市谷周辺の航空写真に、堤とみられる痕跡を新たに確認し、「磐余池の跡と考えられる」とする説を発表したと言います。読売新聞が報じています。画像は桜井市の公式サイトにおける磐余池跡の紹介ページ(出典:桜井市)。
古代史の舞台としてしばしば登場しながら、その所在地が依然として特定されていない、それが「磐余池」です。古事記では「磐余」は「伊波禮」と表記され、まず思い浮かぶのが、初代神武天皇の名前「神倭伊波禮毘古(神倭伊波礼毘古)」です。
第十七代履中天皇は「伊波禮之若櫻宮(伊波礼之若桜宮)」を宮としています。日本書紀に言う、磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)です。そして、伊波禮部も定めています。日本書紀が記すように、「磐余」とよほど縁の多い天皇だったようです。
第二十二代清寧天皇の宮「伊波禮之甕栗宮」(伊波礼之甕栗宮、磐余甕栗宮<いわれのみかぐりのみや>)、第二十六代継体天皇の宮「伊波禮之玉穗宮」(伊波礼之玉穂宮、磐余玉穂宮<いわれたまほのみや>)としても古事記で登場してきます。
古事記にはありませんが、第三十一代用明天皇の宮も磐余池辺双槻宮(いわれのいけのべのなみつきのみや)。その他、聖徳太子、つまりウマヤドが斑鳩の地に移る前に住居した上宮や、万葉集にある大津皇子の辞世の歌でも詠まれていたりします。
その、「磐余」その地に作られたはずの人工池としての「磐余池」の場所に関して、橿原市教育委員会が平成23年(2011年)12月に、橿原市の南東部の香具山の北東1.1キロ地点で磐余池の堤の可能性がある遺構が見つかったと発表、話題を呼びました。
今回の千田氏は、この発表以前から、桜井市説を唱えていらっしゃった方で、今回、新材料の発見もあって、橿原市説への反論を行った、ということになります。
千田氏も指摘しているように、『延喜式』などの記述からしても、現在も桜井市に鎮座する「稚桜神社」は「磐余」「磐余池」と密接な関係があるはずであり、無視・軽視できません。
2011年の橿原市の発表も、「磐余池の堤の可能性」とだけでしたが、マスコミを通じて報道を知った多くの人が、橿原市説に大きく傾いたのは事実。特定は現在でも難航しているようなので、2011年発表は勇み足、という指摘もあります。
どちらにしろ、古代日本の重要な舞台の一つ。古代史の謎解明にも、場所が特定されることは重要になってきますので、今後の推移を見守っていきたいと思います。
【関連記事】
・3世紀の邪馬台国だけではない! 橿原市の堤跡で新たな発見、「磐余池」比定地論争が本格化
古代史の舞台としてしばしば登場しながら、その所在地が依然として特定されていない、それが「磐余池」です。古事記では「磐余」は「伊波禮」と表記され、まず思い浮かぶのが、初代神武天皇の名前「神倭伊波禮毘古(神倭伊波礼毘古)」です。
第十七代履中天皇は「伊波禮之若櫻宮(伊波礼之若桜宮)」を宮としています。日本書紀に言う、磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)です。そして、伊波禮部も定めています。日本書紀が記すように、「磐余」とよほど縁の多い天皇だったようです。
第二十二代清寧天皇の宮「伊波禮之甕栗宮」(伊波礼之甕栗宮、磐余甕栗宮<いわれのみかぐりのみや>)、第二十六代継体天皇の宮「伊波禮之玉穗宮」(伊波礼之玉穂宮、磐余玉穂宮<いわれたまほのみや>)としても古事記で登場してきます。
古事記にはありませんが、第三十一代用明天皇の宮も磐余池辺双槻宮(いわれのいけのべのなみつきのみや)。その他、聖徳太子、つまりウマヤドが斑鳩の地に移る前に住居した上宮や、万葉集にある大津皇子の辞世の歌でも詠まれていたりします。
その、「磐余」その地に作られたはずの人工池としての「磐余池」の場所に関して、橿原市教育委員会が平成23年(2011年)12月に、橿原市の南東部の香具山の北東1.1キロ地点で磐余池の堤の可能性がある遺構が見つかったと発表、話題を呼びました。
今回の千田氏は、この発表以前から、桜井市説を唱えていらっしゃった方で、今回、新材料の発見もあって、橿原市説への反論を行った、ということになります。
千田氏も指摘しているように、『延喜式』などの記述からしても、現在も桜井市に鎮座する「稚桜神社」は「磐余」「磐余池」と密接な関係があるはずであり、無視・軽視できません。
2011年の橿原市の発表も、「磐余池の堤の可能性」とだけでしたが、マスコミを通じて報道を知った多くの人が、橿原市説に大きく傾いたのは事実。特定は現在でも難航しているようなので、2011年発表は勇み足、という指摘もあります。
どちらにしろ、古代日本の重要な舞台の一つ。古代史の謎解明にも、場所が特定されることは重要になってきますので、今後の推移を見守っていきたいと思います。
【関連記事】
・3世紀の邪馬台国だけではない! 橿原市の堤跡で新たな発見、「磐余池」比定地論争が本格化
コメント