今さら邪馬台国08 - 全国を夜這いしまくったオオクニヌシでも、道程問題にはお手上げ?
魏志倭人伝の、「1.距離方角」に掲載された国々とその道程を、極めて素直に解釈すると、通説では、九州を超え、太平洋上に邪馬台国があった、とするしかなくなるようです。

当初唱えられたのが、投馬国と邪馬台国のところで出てくる「南」は「東」の誤りであり、邪馬台国へは九州を経て、実際は東へ東へ向かう、というもので、邪馬台国の所在地は今の奈良県、とするものです。

邪馬台国の時代の100年後ぐらいには、奈良県には確実に大和政権が生まれていたと考えられますので、邪馬台国の話は大和政権の初期段階のことを言ったもの、とする、いわゆる畿内説です(畿内説の研究一覧)。

ただ、文献に誤りがある、とすると、ある意味ではどのようにでも解釈できてしまうので、では、今度は距離や日数に問題があるのでは、とも議論が発展する訳です。

方角は正しいが、日数を含む距離が誇張されている、あるいは解釈の仕様がある、と考えると、邪馬台国は九州にあった、となります。九州説です(九州説の研究一覧)。

簡単に言ってしまえば、方角がネックの畿内説、距離がネックの九州説となるでしょう。

畿内説からは、当時の倭人伝編集者による地理観の誤認があった、日本列島は九州から南、南西方向に延びていたもの、と考えられていた、と指摘する声が上がったりします(室賀信夫の「混一彊理歴代国都之図」説)。

また、九州説では、すべての行程を直列に読むのではなく、どこかを起点にして放射的に読むのが正しい(榎一雄の伊都国放射説)、とか、どこかの距離や日数は、総距離を示すもの、との意見が出てくるわけです。

さらに、魏志倭人伝はやはり正しいのだ、として、とことん読み込むようになるのが九州説、そうではなくて、むしろ考古学の成果からの判断も重視しよう(結果的に倭人伝の内容から多かれ少なかれ離れ、考古資料だけの判断に陥ってしまうことも)とする畿内説、ということにもなってきました。

かといって、九州説が考古資料を軽視しているわけではなく、むしろ畿内説に対抗するためにも力を入れていっているのが現状。

そうした流れで、いやいや日本以外にあったのだ(国外説の研究一覧)、とか、畿内や九州ではなく、日本の他の場所にあったのだ(国内説の研究一覧)、と、邪馬台国の所在地探しが熱を帯びてくるわけです。

実際の議論の発展はもう少し複雑なのですが、極めて簡単に言ってしまえば、上述のような流れです。

女王卑弥呼はどこにいたのか、女王国はどこにあったのか、100年論争してもまだまだ解決していないのが現状です。