宮内庁が天智天皇陵として管理する京都府京都市山科区の御廟野古墳(7世紀後半)を2015年2月20日、日本考古学協会など考古学、歴史学関係の団体の研究者が立ち入り調査し、墳丘の様子などを観察しました。京都新聞が報じています。写真は御廟野古墳(出典:Wikipedia)。
御廟野古墳(ごびょうのこふん)は八角墳で、時期としては古墳時代終末期の築造となります。宮内庁により「山科陵(やましなのみささぎ)」として第三十八代天智天皇の陵に治定されており、「数少ない?」あまり異論が出ない被葬者比定の古墳です。
立ち入り調査は研究者団体からの要望を受け、宮内庁が平成20年(2008年)から許可しています。昨年、平成26年は八角形墳の一つで、天智天皇の弟・天武天皇とその妻・持統天皇の合葬陵(奈良県明日香村)でした。
特に発掘調査をする、という訳ではないですが、考古学者にとって、古墳を間近に見て、自身の足で歩く、というのは、そこから得るものが非常に大きいと聞いたことがあります。
1年に1基とはいかにも少ない、こういう機会は是非多くしていただき、古墳の謎解明が進むと良いのですが、天皇陵は現在にまで続くご一家の大切なご先祖のお墓でもあり、難しいところではあります。以前に比べれば、毎年行われるようになったことに進歩を感じるべきでしょうか。
天智天皇は、父が第三十四代舒明天皇、推古34年(626年)の生まれ、天智天皇10年12月3日(672年1月7日)に崩御。在位は天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日)。即位前の中大兄皇子としての大化の改新が有名。また、崩御後に古代日本史上最大の内乱とされる壬申の乱が起きています。
舒明天皇が最終的に葬られた段ノ塚古墳(奈良県・桜井市)も八角墳であり、舒明天皇は八角墳に葬られた最初の天皇とされており、それは子の天智天皇にも受け継がれたということになります。
御廟野古墳(ごびょうのこふん)は八角墳で、時期としては古墳時代終末期の築造となります。宮内庁により「山科陵(やましなのみささぎ)」として第三十八代天智天皇の陵に治定されており、「数少ない?」あまり異論が出ない被葬者比定の古墳です。
立ち入り調査は研究者団体からの要望を受け、宮内庁が平成20年(2008年)から許可しています。昨年、平成26年は八角形墳の一つで、天智天皇の弟・天武天皇とその妻・持統天皇の合葬陵(奈良県明日香村)でした。
特に発掘調査をする、という訳ではないですが、考古学者にとって、古墳を間近に見て、自身の足で歩く、というのは、そこから得るものが非常に大きいと聞いたことがあります。
1年に1基とはいかにも少ない、こういう機会は是非多くしていただき、古墳の謎解明が進むと良いのですが、天皇陵は現在にまで続くご一家の大切なご先祖のお墓でもあり、難しいところではあります。以前に比べれば、毎年行われるようになったことに進歩を感じるべきでしょうか。
天智天皇は、父が第三十四代舒明天皇、推古34年(626年)の生まれ、天智天皇10年12月3日(672年1月7日)に崩御。在位は天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日)。即位前の中大兄皇子としての大化の改新が有名。また、崩御後に古代日本史上最大の内乱とされる壬申の乱が起きています。
舒明天皇が最終的に葬られた段ノ塚古墳(奈良県・桜井市)も八角墳であり、舒明天皇は八角墳に葬られた最初の天皇とされており、それは子の天智天皇にも受け継がれたということになります。
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