今さら邪馬台国04 - イザナミ、自分が女王に比定されないことをちょっとひがむ
「卑彌呼」は魏志倭人伝に記載されている、倭の女王。

邪馬台国女王・卑弥呼と紹介されることもありますが、魏志倭人伝では、邪馬台国と卑弥呼の記述が離れており、「女王国」との表記は多用されていますが、直接的に「邪馬台国の女王・卑弥呼」という表現がないことから、現在ではより正確を期して、「倭の女王」とされることが多くなっています。

魏志倭人伝の中でも、第三部とも言うべき「3.最新情勢」の部分で登場します。逆に、それ以外の場所(様々な解釈が生まれている「1.距離方角」や、「2.風俗風習」)では記載がありません。

「3.最新情勢」での記載は以下の五つ。

・男王が立ったが倭国が乱れたため一女子を共立、名を卑弥呼といい、鬼道を事とし…
・魏帝の制書(当時の最高の外交文書)で親魏倭王を命じられる際の呼称として
狗奴国の男王である「卑彌弓呼」と不和である倭の女王として
・卑弥呼、死す。径百余歩の冢(墓)を作る。殉死者百余人
・卑弥呼の宗女である「壹與」、13歳にして王となる

特に第一番目での描写が卑弥呼のイメージを形成しています。その訳が下記です。

鬼道を事とし、衆を惑わせ、すでに年長で、夫はなく、弟が国を佐治する。王になってから、姿を見る人少なく、女官1000人が侍り、ただ一人の男子がいて食事の世話をし、彼女の元に出入りしていた。宮室に住み、楼観、城柵がしっかりとあって、常に見張り番がいる。

現在までに卑弥呼は、九州説においては熊襲の女酋、記紀に登場する九州現地の女酋(田油津姫など)や、大和朝廷東遷前のアマテラスなど、畿内説では第七代孝霊天皇の皇女で、箸墓古墳(奈良県・桜井市)の被葬者とされる倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソヒメ)など、それぞれに比定する論が多くを占めています。