・刊行:1978/9
・著者:栗原朋信
・出版:吉川弘文館
・『上代日本対外関係の研究 (1978年)
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栗原朋信は、「邪馬台国と大和朝廷」(『史観』第70冊、昭和39年(1964年)9月)などにおいて、魏志倭人伝に記載されている一大率を、大和朝廷による北九州監督官と見る。つまり、朝廷の権威はこの時すでに九州に及んでいた、とする。
卑弥呼の女王国は大和朝廷と魏とに両属していた。女王国に王号を付与している魏としては、大和朝廷に再度王号を付与することはできなかった、などとする。
一大率を大和朝廷の派遣官とする見方は、植村清二においてもなされていた。
直接的な比定はないものの、邪馬台国を北九州にあった女王国とし、別に畿内大和の地にはすでに大和朝廷が存在していたことを示唆するもので、論争においては邪馬台国九州説、大和朝廷との併存説という形になる。
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・【邪馬台国論争】今までの研究・論争まとめ - 九州説
・著者:栗原朋信
・出版:吉川弘文館
・『上代日本対外関係の研究 (1978年)
栗原朋信は、「邪馬台国と大和朝廷」(『史観』第70冊、昭和39年(1964年)9月)などにおいて、魏志倭人伝に記載されている一大率を、大和朝廷による北九州監督官と見る。つまり、朝廷の権威はこの時すでに九州に及んでいた、とする。
卑弥呼の女王国は大和朝廷と魏とに両属していた。女王国に王号を付与している魏としては、大和朝廷に再度王号を付与することはできなかった、などとする。
一大率を大和朝廷の派遣官とする見方は、植村清二においてもなされていた。
直接的な比定はないものの、邪馬台国を北九州にあった女王国とし、別に畿内大和の地にはすでに大和朝廷が存在していたことを示唆するもので、論争においては邪馬台国九州説、大和朝廷との併存説という形になる。
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