・所在地:奈良県桜井市東田

・時 期:2世紀~4世紀
・時 代:弥生時代後期-古墳時代初期
・形 状:集落
・特 徴:-
・指 定:-

【概要】
まきむくいせき。纏向遺跡とも。三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡。建設された主時期は3世紀、前方後円墳発祥の地とされている。邪馬台国に比定する意見もある。

卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳を筆頭に、考古学的にも貴重な、纒向石塚古墳纒向勝山古墳纒向矢塚古墳東田大塚古墳ホケノ山古墳などの古墳を持つ。

遺跡の名称は、旧磯城郡纒向村に由来し、「纒向」の村名は第十一代垂仁天皇の「纒向珠城宮」、第十二代景行天皇の「纒向日代宮」より名づけられたもの。

2011年(平成23年)現在で把握されている纒向遺跡の範囲は、北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区およびその範囲は約3キロ平米。

遺跡内出土遺物で最も古いものは、縄文時代後・晩期のもの。粗製土器片やサヌカイト片に混じって砂岩製の石棒破片、あるいは土偶や深鉢などが遺跡内より出土している。

遺跡からは弥生時代の集落は確認されておらず、環濠も検出されていない。銅鐸の破片や土坑が2基検出されているのみ。この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土しており、方形周濠墓や竪穴住居なども検出されている。

2011年に、「卑弥呼の居館」とも指摘された大型建物跡(3世紀前半)の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降と判明。今後、造営年代が遺跡が存続した4世紀前半までの間に特定されれば、初期大和政権の重要施設だった可能性が高まるという。

農業用の大型水路や無数の土坑の中には、三輪山祭祀に関する遺物のセットが多数投げ捨てられており、石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である弧文円板(こもんえんばん)が出土している。ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。

古事記にも第二十一代雄略天皇の御世、宴会で粗相を行った三重の采女が謝罪をする際の歌の中に、「纒向の日代の宮は朝日の照り渡る宮、夕日の光のさす宮」とあり、纒向最盛期から時を経てもなお、天皇の居城としてのイメージがここには強く残されていたことがうかがえる。
落ち込み1出土埴輪集合写真 - 桜井市教育委員会・纒向遺跡発掘調査報告書―巻野内坂田地区における調査報告―(2007/3/30)(PDF)
建物B復元CGI(南東より) - 桜井市教育委員会・纒向遺跡発掘調査概要報告書―トリイノ前地区における調査報告―(2013/5/31)(PDF)
【関連サイト】
纒向遺跡 - Wikipedia

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