・所在地:福岡県糟屋郡宇美町光正寺2-4537-11
・経緯度:北緯33度57分78.34秒 東経130度49分99.04秒
・時 期:3世紀中頃
・時 代:古墳時代前期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:国の史跡
【概要】
築造年代は、第1主体部から出土した古式の土師器で甕の制作年代が3世紀中頃から後半あたり、県内の前期古墳の中でも最古期の古墳に位置づけられる。糟屋郡内最大の前方後円墳。古墳の被葬者は、当時糟屋地域を支配した豪族(王?)の墓と考えられる。
奴国の隣にあったとされる不弥国ではないかと考えられている。
墳丘規模は全長約54メートル、後円部径約34メートル、前方部長20メートルで前方部2段築成、後円部3段築成。標高46m前後の東西方向に延びる、丘陵上に築かれている。
墳丘周囲には2段目以上で葺石が施されている。
埋葬施設は、後円部中央に第1主体(築造当初の墓で大型の箱式石棺)を埋置し、大型の箱式石棺を川原石で囲んでいる。墓壙の規模は長軸で約6メートル、幅約4メートルで箱式石棺の石材は、安山岩の板石や緑色片岩、滑石などが使用されている。
第2主体部は第1主体部の北東側に箱式石棺が築かれており、石棺は昭和40年代には露出、その後破壊された。
第3主体部(割竹形木棺)は第1主体の南側で棺の腐食によって陥没した溝状遺構と埋め土の上に置かれていた土師器椀が出土。
第4主体部(土器棺)は第3主体部東南角で出土。この時期の土器棺としては福岡県で最大級の大きさ。
第5主体部(箱式石棺)は第1主体部西側で確認。
主体部は第1から第4主体部が、主軸を東西方向に整然と並べて築かれ、頭位は西に向けていたと推定される。これに対し、第5主体部は南北方向に主軸を向けて造られている。
【関連サイト】
・宇美町
・経緯度:北緯33度57分78.34秒 東経130度49分99.04秒
・時 期:3世紀中頃
・時 代:古墳時代前期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:国の史跡
【概要】
築造年代は、第1主体部から出土した古式の土師器で甕の制作年代が3世紀中頃から後半あたり、県内の前期古墳の中でも最古期の古墳に位置づけられる。糟屋郡内最大の前方後円墳。古墳の被葬者は、当時糟屋地域を支配した豪族(王?)の墓と考えられる。
奴国の隣にあったとされる不弥国ではないかと考えられている。
墳丘規模は全長約54メートル、後円部径約34メートル、前方部長20メートルで前方部2段築成、後円部3段築成。標高46m前後の東西方向に延びる、丘陵上に築かれている。
墳丘周囲には2段目以上で葺石が施されている。
埋葬施設は、後円部中央に第1主体(築造当初の墓で大型の箱式石棺)を埋置し、大型の箱式石棺を川原石で囲んでいる。墓壙の規模は長軸で約6メートル、幅約4メートルで箱式石棺の石材は、安山岩の板石や緑色片岩、滑石などが使用されている。
第2主体部は第1主体部の北東側に箱式石棺が築かれており、石棺は昭和40年代には露出、その後破壊された。
第3主体部(割竹形木棺)は第1主体の南側で棺の腐食によって陥没した溝状遺構と埋め土の上に置かれていた土師器椀が出土。
第4主体部(土器棺)は第3主体部東南角で出土。この時期の土器棺としては福岡県で最大級の大きさ。
第5主体部(箱式石棺)は第1主体部西側で確認。
主体部は第1から第4主体部が、主軸を東西方向に整然と並べて築かれ、頭位は西に向けていたと推定される。これに対し、第5主体部は南北方向に主軸を向けて造られている。
【関連サイト】
・宇美町
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