・刊行:1981/1
・著者:(編さん)佐伯有清
・出版:創元社

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『邪馬台国基本論文集 1』に、笠井新也の次の論文が収載されている。
・「邪馬台国は大和である」(大正11年(1922年)、考古学雑誌12巻7号)
・「卑弥呼時代に於ける畿内と九州との文化的並に政治的関係」(考古学雑誌13巻7号)
・「卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫命(一)」 (考古学雑誌14巻7号)
・「卑弥呼の冢墓と箸墓」(考古学雑誌32巻7号)
レファレンス協同データベースより)

笠井新也は大正11年(1922年)以降の論文で、近代論争における畿内説の提唱者・内藤湖南の説を支持しながら、卑弥呼を初めて倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソヒメ)に比定、倭人伝に出てくる男弟を第十代崇神天皇と指摘。実際は叔母、甥っ子の関係だが、外国人の見聞としては恕すべき、とする。

また、その墓を箸墓古墳(奈良県・桜井市)とした。

笠井は、魏志の畿内までのルートとして、初めて日本海側を回ったことの可能性を指摘したことでも知られており、現在の畿内説の論者である小路田泰直苅谷俊介などもこれを支持、補強している。

なお、魏志倭人伝の地理観を問題にしながらも、同じ日本海側コースの説を取る山田孝雄も、同じ年に同じ考古学雑誌に論文を発表している。またほぼ同じタイミングで、三宅米吉が畿内説を採りながらも、瀬戸内行路を主張している。

「卑弥呼時代に於ける畿内と九州との文化的並に政治的関係」では、卑奴母離(ヒナモリ)について考察し、ヒナは天上あるいは皇都に対する対照語である蛮夷を意味し、モリは「守る者」であって、大和朝廷による派遣官と見て、自身の畿内説を補強した。

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