邪馬台国を解く―空白から立ち上がる日本古代史
・刊行:1996/12
・著者:斎藤道一
・出版:立風書房

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4~6世紀、ユーラシア大陸の東と西の端で起こった嵐のような民族の大移動。激浪は押し寄せて日本を変えた。

「邪馬台国」問題を世界史の文脈の中でダイナミックにとらえ直した野心作。

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邪馬台国論としては、魏志倭人伝に出てくる五つの国の比定地がいずれも北九州とされている段階で、この地域を支配していた国であることは間違いなく、また、鉄製武器や青銅製武器の出土分布から見ても、武力の九州優勢は動かないため、北九州を支配しえたのは九州勢力として、九州説の立場を取る。

興味深いのは、弥生後期と前期古墳時代、前期古墳時代と後期古墳時代に、それぞれ大きな断絶があったとして、 江上波夫の騎馬民族征服王朝説を批判的に継承して、266年で記録から途切れる邪馬台国のその後については、民族の大移動があったとして、それが今までの弥生後期から、前期古墳へと移行するきっかけとなったとする。

前期 古墳から後期古墳に関しては江上説とほぼ同様、応神東遷を想定している。

このように考えれば、確かに前方後円墳の出現の理由として、民族大移動という伝家の宝刀で説明することはできるが、ただし、弥生後期と前期古墳が断絶しているかどうかはなお検証が必要に思える。断絶を示すと考えられるものと、継続を示すと考えられるもの、どちらかといえばやはり後者の方が優勢。そもそも前方後円墳の発想を朝鮮半島、あるいはそこにいた部族が起源とするには論拠が足りなさすぎる。

民族の大移動はことさら強調するまでもなく、戦時はもちろん、平時でも通常に行われていたのではないだろうか。縄文、さらには旧石器の昔から、かなり広範な交易ルートが確立されていることが分かっており、当時は交通が不便だった、という固定観念が我々には強すぎるような気がする。古代人はもっと自由に世界を行き来していたかもしれない。グローバル化が、今と比べて格段に落ちる、と考えるのは現代人のエゴなのかもしれない。

何らかの形で、天孫ニニギは九州に降臨したろうし、初代神武天皇は東遷を敢行したろう、という意味では、大和朝廷の原点が九州にあることは間違いない。要はそれをどのように解釈するのか、そこに短期間内、比較的大規模(江上説でも大規模の必要はない、とされるが、それには少し無理がある)な民族の移動を想定するよりは、常時行われていた一族単位の移動・移住において、時には受動的に、時には能動的に、それらの影響が絡み合って、飛躍ではなく、熟成されていった、と考えた方が、弥生後期から前期古墳への移行を考えるには適切なような気がする。

結局、自分は神か何かと考えて、斜に構えた論なため、説得力を持ち得ていない、という全体的な感想に尽きるのかもしれないが。