・刊行:1956
・著者:橋本増吉
・出版:東洋文庫
・『東洋史上より見たる日本上古史研究 (1956年) (東洋文庫論叢〈第38〉)
』をアマゾンで購入
橋本 増吉(はしもと ますきち、1880年6月12日 - 1956年5月19日)は、日本の東洋史学者。
白鳥庫吉の弟子筋にあたる橋本増吉は邪馬台国論争において、本書に収録されている「邪馬台国及び卑弥呼に就いて」(1932年)も含め、邪馬台国の位置を九州、福岡県・山門郡に比定、いわゆる邪馬台国九州説の論者とされる。また、邪馬台国の東遷説も唱えている。
別個のヤマト国に至る道のりを、陳寿が誤って綴り合わせたために併存が生じたと見る、誤綴合説と呼ばれる論。先に喜田貞吉が論じていたもので、それを大いに発展させた。太田亮の賛同を得ている。
なお、「邪馬台国及び卑弥呼に就いて」はこちらにも収録されているという。
高橋健自の考古学重視を批判。「歴史学者があまりに識見のみで発言するのも問題だが、考古学者が遺物に固執してその解釈に依存するのも事実を見えなくする」とした。
前方後円墳の成立は考古学者の言うように製作年代が判明している訳ではなく、畿内の銅鐸文化が九州文化よりも古いという確証など何もない、などと指摘した。
これらの論は梅原末治の反論を受けたが、橋本は、本来邪馬台国問題は魏志に記された記録上の問題であって、現在の考古学者は記録など無視し考古学の成果しか見ていない、もし考古学の成果を歴史解釈に用いるのであれば、それはその成果が確立不動のもので、何処にも異論のないものでなければならない、と指摘。
考古学者も、社会学・民族 心理学・人類学・土俗学・言語学・史学等の諸科学と相協力して真理に到達すべきである、とした。
中山平次郎が昭和3年(1928年)9月、「考古学雑誌」に「魏志倭人伝の生口」を発表、橋本はこれを批判、「生口論争」が展開された。これについて橋本は、末松保和の影響を受けた、とされる。
【関連記事】
・【邪馬台国論争】今までの研究・論争まとめ - 九州説 - 福岡県 - 東遷説
・著者:橋本増吉
・出版:東洋文庫
・『東洋史上より見たる日本上古史研究 (1956年) (東洋文庫論叢〈第38〉)
橋本 増吉(はしもと ますきち、1880年6月12日 - 1956年5月19日)は、日本の東洋史学者。
白鳥庫吉の弟子筋にあたる橋本増吉は邪馬台国論争において、本書に収録されている「邪馬台国及び卑弥呼に就いて」(1932年)も含め、邪馬台国の位置を九州、福岡県・山門郡に比定、いわゆる邪馬台国九州説の論者とされる。また、邪馬台国の東遷説も唱えている。
別個のヤマト国に至る道のりを、陳寿が誤って綴り合わせたために併存が生じたと見る、誤綴合説と呼ばれる論。先に喜田貞吉が論じていたもので、それを大いに発展させた。太田亮の賛同を得ている。
なお、「邪馬台国及び卑弥呼に就いて」はこちらにも収録されているという。
高橋健自の考古学重視を批判。「歴史学者があまりに識見のみで発言するのも問題だが、考古学者が遺物に固執してその解釈に依存するのも事実を見えなくする」とした。
前方後円墳の成立は考古学者の言うように製作年代が判明している訳ではなく、畿内の銅鐸文化が九州文化よりも古いという確証など何もない、などと指摘した。
これらの論は梅原末治の反論を受けたが、橋本は、本来邪馬台国問題は魏志に記された記録上の問題であって、現在の考古学者は記録など無視し考古学の成果しか見ていない、もし考古学の成果を歴史解釈に用いるのであれば、それはその成果が確立不動のもので、何処にも異論のないものでなければならない、と指摘。
考古学者も、社会学・民族 心理学・人類学・土俗学・言語学・史学等の諸科学と相協力して真理に到達すべきである、とした。
中山平次郎が昭和3年(1928年)9月、「考古学雑誌」に「魏志倭人伝の生口」を発表、橋本はこれを批判、「生口論争」が展開された。これについて橋本は、末松保和の影響を受けた、とされる。
【関連記事】
・【邪馬台国論争】今までの研究・論争まとめ - 九州説 - 福岡県 - 東遷説
コメント