前方後円墳
大和政権のシンボルとされる前方後円墳が、韓国南西部に少なくとも12基あることがわかり、橿原考古学研究所付属博物館(奈良県・橿原市)の坂靖・総括学芸員が、日韓の考古学者らが出席して同研究所で開かれた研究集会で発表しました。産経新聞が報じています。画像は前方後円墳の模式図(出典:Wikipedia

韓国南西部の前方後円墳については、日本でもすでに指摘されていたことですが、韓国では1980年代ごろから前方後円墳に注目が集まり始めたようで、研究機関の調査により、光州広域市や全羅南道地域(咸平郡や海南郡など)で前方後円墳が確認されていました。

研究者によって、前方後円墳か否か意見が分かれるものがあったようですが、今回、日本の研究機関と研究者による確認を経て、12基が前方後円墳と確認されたようです。

いずれも当時の百済。今回確認された中で最も大きいのは、長鼓峯古墳(海南郡)で、全長77メートル、横穴式石室と埴輪が確認されていると言います。月桂洞1号墳(光州広域市)は全長約45メートルで、周濠が確認され、横穴式石室を持ち、埴輪の配列が確認できると言います。

前方後円墳の起源が日本列島にあることは疑いありません。前方後円墳は大和政権のシンボルとして、集中度合いは違えど、日本列島に幅広く分布し、大和・ヤマト政権の影響力を推し量る目安としても考えられてきたもの。今回、百済の支配領域で発見されたことは、当時の日本と百済が非常に密接な関係を持っていたことを改めて示したと言えそうです。

一般的に違う文化の墓制を新たに取り入れる、というのは、その地の風習上極めて画期的な変化です。それが当時の朝鮮半島で行われた、ということは、やはり当時の交流において、文物や技術が朝鮮半島→日本という一辺倒ばかりではなく、日本→朝鮮半島という流れが、ある意味では、朝鮮半島→日本よりもより大きな影響力をもって行われていた可能性があります。

トータルの文明度合いでは当時、やはり日本は後進国だったかもしれません。しかし、武力や政治力という方面では、部分的にも朝鮮半島に優位性を確保していた、のでしょう。例えば、神功皇后の三韓征伐が、伝説・神話の類、と今でも片づけられることが多い中で、「いやいや、実は本当にあったんだよ」ということにもなりそうな、今回の確認と報告と言えそうです。

また、神功皇后の件に限らず、古事記において、百済に対しては、特に高圧的な文言が目立ちます。これまで、そして今も、それは「古事記の背伸び」と考えられがちでしたが、墓制の輸出まで行われていたとなると、古事記の姿勢はかなり客観中立だった、と言えるかもしれず、そうなると、今回の確認、報告は古事記の信頼性をさらに高めることにもつながる可能性があります。

これを契機に、朝鮮半島の前方後円墳研究がさらに進展し、当時の様相の解明につながれば、と思います。

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