・刊行:1967
・著者:新妻利久
・出版:新月社
・『やまと邪馬台国 (1967年)』をアマゾンで購入
新妻利久は「邪馬台国考」(『新国学』二、昭和38年(1963年)6月)等も含め、邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「畿内」に比定している。
この論文で新妻は、不彌国は豊前であり、投馬国は日向とし、その証左として西都原古墳群を挙げている。投馬国から邪馬台国へ南水行十日陸行一月について、日向を出発し、豊後水道から方向を東南に取り、土佐を回って紀伊半島に上陸、大和に陸行したとする。
山陰海岸沿いの日本海航路、瀬戸内海航路などが畿内説においてみられたが、太平洋側ルートを示したものとしては初と言えるか。
【関連記事】
・【邪馬台国論争】今までの研究・論争まとめ - 畿内説
・著者:新妻利久
・出版:新月社
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新妻利久は「邪馬台国考」(『新国学』二、昭和38年(1963年)6月)等も含め、邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「畿内」に比定している。
この論文で新妻は、不彌国は豊前であり、投馬国は日向とし、その証左として西都原古墳群を挙げている。投馬国から邪馬台国へ南水行十日陸行一月について、日向を出発し、豊後水道から方向を東南に取り、土佐を回って紀伊半島に上陸、大和に陸行したとする。
山陰海岸沿いの日本海航路、瀬戸内海航路などが畿内説においてみられたが、太平洋側ルートを示したものとしては初と言えるか。
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