市内最古の神社、神武皇后と父母を奉斎する子守明神、6月に三枝祭
[住所]奈良県奈良市本子守町18
[電話]0742-22-0832
率川神社(いさがわじんじゃ)は、奈良県奈良市本子守町にある神社。現在は大神神社の境外摂社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「率川坐大神神御子神社三座(大和国・添上郡)」に比定される式内社(小社)。
飛鳥時代の第33代推古天皇元年(593年)、大三輪君白堤が勅命によって奉斎したのが始まりで、市内最古の神社だという。
御祭神は、中殿が初代神武天皇の皇后である媛蹈韛五十鈴姫命(御子神)、向かって左殿が狭井大神(御父神)、向かって右殿が玉櫛姫命(御母神)。
平安時代前期の仁寿2年(852年)、文徳天皇の代に従五位下を授けられ、神封6戸(左京4戸、丹後国2戸)を与えられた。
平安時代末期の治承4年(1180年)12月、平重衡の乱によって社殿が消失。中世以降は春日若宮神官により管理され、興福寺とのつながりが大きかった。
そのため、中世期の遷宮記録などは、『大乗院寺社雑事記』に度々記録された。近世には春日大社の大宮外院11社の中にあった。
明治10年(1877年)3月、内務省達により大神神社摂社率川坐大神御子神社と定められ、現在に至る。
中央の子を両脇に父母が支える形で祀られているため、古くから「子守明神」と称えられ、安産・育児などの神として篤い信仰が寄せられている。
南辺を流れる率川は、当社にちなんで子守川との俗称もある。
本殿は一間社春日造の社殿が三殿並立し、障屏により繋がっている。正面にいずれも七級の木階を設け、登高欄に擬宝珠をつける。
屋根は桧皮葺で箱棟に千木勝男木を上げており、細部手法から見て江戸時代初期の建築と見られる。県の有形文化財に指定されている。
平成19年(2007年)には幕末の文久2年(1862年)以来の本殿保存修理が竣工、朱塗りの色も鮮やかに蘇った。
例祭は6月17日で三枝祭(さいくさのまつり)。一般には「ゆりまつり」で知られる。
大宝元年(701年)制定の「大宝令」に、国の祭祀として規定されており、大神神社で行われる鎮花祭とともに疫病を鎮めることを祈る由緒ある祭り。
昔、御祭神が三輪山の麓、狭井川のほとりに住んでいた際、附近に咲く笹ゆりの花を愛したと伝えられ、後世、酒罇に笹ゆりの花を飾って祭るようになったという。
いつの間にか中絶していたのを、明治14年(1881年)、再び古式の祭儀として復興し、現在に至る。
祭典後にゆりをかざした7人の乙女の行列が繰り広げられるが、これは『古事記』にも記載された御祭神の故事にちなむもの。
境内社に、率川阿波神社、住吉神社(住吉大神。上筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神と息長帯比売命)、春日神社(春日大神。武甕槌命・斎主命・天児屋根命・比売神)がある。
率川阿波神社は、やはり式内社で、大神神社の御子神として恵比須神を奉斎しており、市内最古の恵比須社だという。例祭は6月17日。1月5日に初戎が行われる。
奈良時代の宝亀2年(771年)、大納言是公によって創建された。仁寿2年(852年)、従五位下に進む。
戦国時代の天文元年(1532年)の土一揆や、松永久秀の兵火にかかって一時廃絶寸前だった。
江戸時代中期の『奈良坊目拙解』によると、旧跡は西城戸町南側、東方より2軒目の人家の裏にあり、松樹1株を御神木とし祀っていたがさびれていたという。
明治になってようやく小祠が祀られるようになり、大正9年(1920年)に当社境内に移された。
社殿の前には、旧地から移した「享保3年(1803年)阿波社」とある四角形石灯籠が1基ある。
【ご利益】
子宝・育児、家内安全、良縁・縁結び(公式HP)
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・奈良県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、奈良県に鎮座している神社の一覧
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率川神社(いさがわじんじゃ)は、奈良県奈良市本子守町にある神社。現在は大神神社の境外摂社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「率川坐大神神御子神社三座(大和国・添上郡)」に比定される式内社(小社)。
飛鳥時代の第33代推古天皇元年(593年)、大三輪君白堤が勅命によって奉斎したのが始まりで、市内最古の神社だという。
御祭神は、中殿が初代神武天皇の皇后である媛蹈韛五十鈴姫命(御子神)、向かって左殿が狭井大神(御父神)、向かって右殿が玉櫛姫命(御母神)。
平安時代前期の仁寿2年(852年)、文徳天皇の代に従五位下を授けられ、神封6戸(左京4戸、丹後国2戸)を与えられた。
平安時代末期の治承4年(1180年)12月、平重衡の乱によって社殿が消失。中世以降は春日若宮神官により管理され、興福寺とのつながりが大きかった。
そのため、中世期の遷宮記録などは、『大乗院寺社雑事記』に度々記録された。近世には春日大社の大宮外院11社の中にあった。
明治10年(1877年)3月、内務省達により大神神社摂社率川坐大神御子神社と定められ、現在に至る。
中央の子を両脇に父母が支える形で祀られているため、古くから「子守明神」と称えられ、安産・育児などの神として篤い信仰が寄せられている。
南辺を流れる率川は、当社にちなんで子守川との俗称もある。
本殿は一間社春日造の社殿が三殿並立し、障屏により繋がっている。正面にいずれも七級の木階を設け、登高欄に擬宝珠をつける。
屋根は桧皮葺で箱棟に千木勝男木を上げており、細部手法から見て江戸時代初期の建築と見られる。県の有形文化財に指定されている。
平成19年(2007年)には幕末の文久2年(1862年)以来の本殿保存修理が竣工、朱塗りの色も鮮やかに蘇った。
例祭は6月17日で三枝祭(さいくさのまつり)。一般には「ゆりまつり」で知られる。
大宝元年(701年)制定の「大宝令」に、国の祭祀として規定されており、大神神社で行われる鎮花祭とともに疫病を鎮めることを祈る由緒ある祭り。
昔、御祭神が三輪山の麓、狭井川のほとりに住んでいた際、附近に咲く笹ゆりの花を愛したと伝えられ、後世、酒罇に笹ゆりの花を飾って祭るようになったという。
いつの間にか中絶していたのを、明治14年(1881年)、再び古式の祭儀として復興し、現在に至る。
祭典後にゆりをかざした7人の乙女の行列が繰り広げられるが、これは『古事記』にも記載された御祭神の故事にちなむもの。
境内社に、率川阿波神社、住吉神社(住吉大神。上筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神と息長帯比売命)、春日神社(春日大神。武甕槌命・斎主命・天児屋根命・比売神)がある。
率川阿波神社は、やはり式内社で、大神神社の御子神として恵比須神を奉斎しており、市内最古の恵比須社だという。例祭は6月17日。1月5日に初戎が行われる。
奈良時代の宝亀2年(771年)、大納言是公によって創建された。仁寿2年(852年)、従五位下に進む。
戦国時代の天文元年(1532年)の土一揆や、松永久秀の兵火にかかって一時廃絶寸前だった。
江戸時代中期の『奈良坊目拙解』によると、旧跡は西城戸町南側、東方より2軒目の人家の裏にあり、松樹1株を御神木とし祀っていたがさびれていたという。
明治になってようやく小祠が祀られるようになり、大正9年(1920年)に当社境内に移された。
社殿の前には、旧地から移した「享保3年(1803年)阿波社」とある四角形石灯籠が1基ある。
【ご利益】
子宝・育児、家内安全、良縁・縁結び(公式HP)
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