・所在地:大阪府大阪市住吉区帝塚山西2-8
・経緯度:北緯34度62分15.58秒 東経135度49分68.28秒
・時 期:4世紀-5世紀
・時 代:古墳時代中期前半
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:国の史跡
【概要】
全長88メートル、高さ9メートルの前方後円墳で、帝塚山という地名のルーツ。
明治時代までは、俗に「大帝塚」と「小帝塚」と呼ばれる大小二つの古墳があり、この地に館を持っていた古代豪族の大伴氏の大伴金村とその子の墓とされていた。ただし、大伴金村は6世紀前半の人物で年代が合致しない。
大伴金村は古事記にも大伴之金村連(おおとものかねむらのむらじ)として記載され、第二十六代継体天皇の御世、物部荒甲とともに筑紫の君の磐井を討伐したと伝えられている。
大帝塚の方は、現在の大阪市立住吉中学校の敷地となり、小帝塚の方が帝塚山古墳として現存している。
【関連サイト】
・帝塚山古墳 - Wikipedia
・経緯度:北緯34度62分15.58秒 東経135度49分68.28秒
・時 期:4世紀-5世紀
・時 代:古墳時代中期前半
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:国の史跡
【概要】
全長88メートル、高さ9メートルの前方後円墳で、帝塚山という地名のルーツ。
明治時代までは、俗に「大帝塚」と「小帝塚」と呼ばれる大小二つの古墳があり、この地に館を持っていた古代豪族の大伴氏の大伴金村とその子の墓とされていた。ただし、大伴金村は6世紀前半の人物で年代が合致しない。
大伴金村は古事記にも大伴之金村連(おおとものかねむらのむらじ)として記載され、第二十六代継体天皇の御世、物部荒甲とともに筑紫の君の磐井を討伐したと伝えられている。
大帝塚の方は、現在の大阪市立住吉中学校の敷地となり、小帝塚の方が帝塚山古墳として現存している。
【関連サイト】
・帝塚山古墳 - Wikipedia
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