・所在地:鳥取県鳥取市国府町岡益
・経緯度:北緯35度45分14.97秒 東経134度29分47.22秒
・時 期:6世紀末
・時 代:古墳時代後期
・形 状:変形八角墳
・特 徴:装飾古墳
・指 定:国の史跡
【概要】
昭和53年(1978年)に中国地方で初めてとなる彩色壁画が発見されて注目される。昭和54年(1979年)に国の史跡に指定された。その後の発掘調査で、日本最古の方形壇を持つ変型八角形古墳であることが確認された。
丘の南面を幅約40メートルの馬蹄形に堀りくぼめ、底部を25メートル四方ほどに整地。墳丘部は対角長17メートル、一辺2.5-8.5メートルの変型八角形。墳丘の前(南面)には方形壇(祭祀を行う広場)が築かれている。
方形壇は長さ2メートル、幅14メートルあり、玄武岩の石垣で三段。遺物は、須恵器・土師器・刀子・棺金具状鉄製品、金製の薄延べ板などが出土しており、これらの出土遺物から本古墳の築造年代は6世紀末から7世紀初、古墳時代の後期-終末期と推定される。
石室は墳丘の南面にある。内部には凝灰岩を切石とした横穴式石室を構築。石室の全長は9メートルほど、幅60~80センチメートルで、玄室・玄門・前室・羨道の部分からなり、玄室の高さは1.8メートル。前室部の高さは2.1メートルで、石室の中では最も高い。
石室の奥壁にはベンガラ(赤黄色の彩色)で魚や同心円(日・月)、竜文、三角文を描いている。石室は早くから開口しており、子どもの遊び場となっていたが、1978年に彩色壁画であることが確認された。
壁画の主題である魚は体長53センチ、鮭か鯉を描いたと見られる。鮭は死者がもう一度よみがえり、生前の姿を見せてほしいという追慕の気持ち、鯉は滝を登ると竜に変わる『竜文の鯉』という中国の故事に由来しており、いずれにしても死者を弔う祈りの印。
被葬者については不明であるが、天武天皇4年(675年)に因幡に配流された皇族の麻績王(麻続王、おみおう)であるとの説が有力。 八角形の墳丘・壁画の魚・南面するプランなどは道教思想が濃厚であること、石室の切石の精巧な技術、壁画の技術などから大陸文化の影響が強くうかがえ、被葬者は相当に身分の高い人物であったことが想像される。
ただし、麻績王の配流先には諸説あり、万葉集では伊勢であるとしている。
【関連サイト】
・梶山古墳 - Wikipedia
・経緯度:北緯35度45分14.97秒 東経134度29分47.22秒
・時 期:6世紀末
・時 代:古墳時代後期
・形 状:変形八角墳
・特 徴:装飾古墳
・指 定:国の史跡
【概要】
昭和53年(1978年)に中国地方で初めてとなる彩色壁画が発見されて注目される。昭和54年(1979年)に国の史跡に指定された。その後の発掘調査で、日本最古の方形壇を持つ変型八角形古墳であることが確認された。
丘の南面を幅約40メートルの馬蹄形に堀りくぼめ、底部を25メートル四方ほどに整地。墳丘部は対角長17メートル、一辺2.5-8.5メートルの変型八角形。墳丘の前(南面)には方形壇(祭祀を行う広場)が築かれている。
方形壇は長さ2メートル、幅14メートルあり、玄武岩の石垣で三段。遺物は、須恵器・土師器・刀子・棺金具状鉄製品、金製の薄延べ板などが出土しており、これらの出土遺物から本古墳の築造年代は6世紀末から7世紀初、古墳時代の後期-終末期と推定される。
石室は墳丘の南面にある。内部には凝灰岩を切石とした横穴式石室を構築。石室の全長は9メートルほど、幅60~80センチメートルで、玄室・玄門・前室・羨道の部分からなり、玄室の高さは1.8メートル。前室部の高さは2.1メートルで、石室の中では最も高い。
石室の奥壁にはベンガラ(赤黄色の彩色)で魚や同心円(日・月)、竜文、三角文を描いている。石室は早くから開口しており、子どもの遊び場となっていたが、1978年に彩色壁画であることが確認された。
壁画の主題である魚は体長53センチ、鮭か鯉を描いたと見られる。鮭は死者がもう一度よみがえり、生前の姿を見せてほしいという追慕の気持ち、鯉は滝を登ると竜に変わる『竜文の鯉』という中国の故事に由来しており、いずれにしても死者を弔う祈りの印。
被葬者については不明であるが、天武天皇4年(675年)に因幡に配流された皇族の麻績王(麻続王、おみおう)であるとの説が有力。 八角形の墳丘・壁画の魚・南面するプランなどは道教思想が濃厚であること、石室の切石の精巧な技術、壁画の技術などから大陸文化の影響が強くうかがえ、被葬者は相当に身分の高い人物であったことが想像される。
ただし、麻績王の配流先には諸説あり、万葉集では伊勢であるとしている。
【関連サイト】
・梶山古墳 - Wikipedia
コメント