・所在地:奈良県明日香村平田

・時 期:7世紀末
・時 代:古墳時代終末期
・形 状:円墳
・特 徴:装飾古墳
・指 定:国の特別史跡

【概要】
藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、直径23メートル(下段)及び18メートル(上段)、高さ5メートルの二段式の円墳。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。2009年に本来の形状に復元され、一般に公開されている。

古墳は1973年4月23日、特別史跡に、また極彩色壁画は、1974年4月17日に国宝に指定されている。

古墳は鎌倉時代頃に盗掘を受けており、石室の南壁には盗掘孔が開けられていたが、壁画の彩色は鮮やかに残り、盗掘をまぬがれた副葬品の一部も検出された。

盗掘を逃れて残っていた銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期と推定されていたが、2005年の発掘調査により、藤原京期(694年~710年)の間だと確定された。被葬者については諸説あり特定されていない。

石室は凝灰岩の切石を組み立てたもので、南側に墓道があり、南北方向に長い平面をもっている。石室の寸法は南北の長さが約265センチ、東西の幅が約103センチ、高さが約113センチ(いずれも内法寸法)で、大人2人がかがんでやっと入れる程度の狭小な空間。

横口式石槨と呼ばれる系統に入り、平らな底石の上に板石を組み合わせて造ってある。横口式石槨の系譜には、鬼の俎板(まないた)・厠(かわや)、斉明陵と推測されている牽牛子塚古墳、野口王墓(天武・持統陵)、キトラ古墳などが入り、7世紀前半の中頃から8世紀初頭まで続いている。

壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれている。壁画の題材は人物像、日月、四方四神および星辰(星座)。

東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍とその上の日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子群像、四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれている。

男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画発見当初は)色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真が紹介され、「飛鳥美人」のニックネームで親しまれている。

奥の北壁には四神のうちの玄武が描かれ、天井には星辰が描かれている。南壁には四神のうち南方に位置する朱雀が描かれていた可能性が高いが、鎌倉時代の盗掘時に失われたものと思われる。

天井画は、円形の金箔で星を表し、星と星の間を朱の線でつないで星座を表したもの。中央には北極五星と四鋪四星(しほしせい)からなる紫微垣、その周囲には二十八宿を表す。これらは古代中国の思想に基づくもので、中央の紫微垣は天帝の居所を意味している。

所在する国営飛鳥歴史公園は、日本の歴史公園100選一つ。高松塚古墳壁画は、日本遺産日本国創成のとき―飛鳥を翔(かけ)た女性たち―」の構成文化財の一つ。

【関連サイト】
高松塚古墳 - Wikipedia

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