古墳時代前期銅鏡の北限更新20141204 - ぶっちゃけ古事記
宮城県教委は2014年12月4日、栗原市築館の「入の沢遺跡」のうち、古墳時代前期(4世紀)の集落跡から、銅鏡3枚が発掘されたと発表しました。古墳時代前期の銅鏡では国内最北の出土例とのこと。読売新聞が報じています

画像は、<1>が今回の栗原市築館周辺、<2>が今まで古墳時代前期の銅鏡の出土例として最北だった山形市周辺。

集落跡は幅2-4メートル、深さ0.5-1.5メートル、長さ380メートルの堀に囲まれ、塀の跡も見つかって、かなり大規模なものだったことが分かります。

見つかった銅鏡は、直径8.2センチと5.6センチの珠文鏡が計2枚と、9センチの「内行花文鏡」が1枚。8.2センチの珠文鏡はほぼ完全な形で、残る1枚と内行花文鏡は一部が欠けていたといいます。

古墳時代前期の銅鏡が出土したのは宮城県内で初めて。栗原市によると、これまでの出土例は山形市(馬洗場遺跡)が最北だった、と言います。また、河北新報によれば、古墳の副葬品となる鏡が集落跡から、3枚もまとまって出土するのは珍しいケースです。この遺跡から約100メートル西に円墳を有する年代不明の大仏遺跡群があり、関連がうかがわれるといいます。

銅鏡と言えば、どうしてもやはり中央、ヤマトとの関わりを連想させます。それが今回の発見で、ぐーんと北に延びました。

築館と言えば、伊治城跡(いじじょうあと)が有名です。朝廷による対蝦夷の本拠地の一つで、国府があった多賀城の北方約50キロに位置し、神護景雲元年(767年)に設置され、宝亀11年(780年)には、伊治郡大領の伊治公砦麻呂が反乱を起こしたことで知られています。

その400年も前に、銅鏡を複数有する、おそらくはヤマトと関わりのある有力者が、堅固な集落を築き、存在していたことが分かった今回の調査結果は、古墳時代前期というはるか古のように感じられる時代のイメージの修正を必要とするものとなりそうです。それはもちろん、その時代に該当する古事記についても言えるものでしょう。

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