古事記や日本書紀に描かれたヤマトタケルとオトタチバナの夫婦愛を研究した草津町の詩人、坂本喜市さんの遺志を継ぐ県内の有志や団体が2014年12月7日、前橋市民文化会館で家族向けの公演を開催します。これまでもオトタチバナの顕彰コンサートを開催してきましたが、今回はオトタチバナを描いたミュージカルの2015年開催に向けた企画です。産経新聞が報じています。
オトタチバナは、ヤマトタケルの妻で、ヤマトタケルの東国遠征に同行。その直前、ヤマトタケルはオトタチバナを娶ったばかりでの東国遠征に不安を感じ、伊射奈岐神社(奈良県・天理市)に戦勝を祈願したとも伝えられ、当時のことですので、ヤマトタケルには複数の妻はいましたが、その中でもオトタチバナをいかに大事にしていたのかがうかがえます。
相模の国に入り、その地の国造に、ヤマトタケル一行は騙し討ちを仕掛けられ、火攻めに遭います。この恐慌状態の中でも、ヤマトタケルはオトタチバナを気遣い、守り抜いたと言われています。
その窮地を脱した後、一行は走水の海を渡ることになりますが、ここで海神が一行の行く手を邪魔し、渡海できません。そこでオトタチバナが、自分の身を犠牲に、入水して海神の怒りを鎮めることを決意し、実行します。そうして一行は無事に渡海することができました。
その入水に際して、オトタチバナは辞世の歌を残しています。それによれば、相模の国での騙し討ちの際、ヤマトタケルがオトタチバナを気遣い、かばい続けたこと、その愛への感謝がつづられています。
七日後にオトタチバナの櫛が漂着し、ヤマトタケルはそれを埋葬し、オトタチバナの墓とします。それが今の吾妻神社(神奈川県・二宮町)です。
東国遠征も終わり、都への帰途、ヤマトタケルは足柄の峠で、「ああ、吾妻よー」と嘆きます。古事記ではこれが東(あずま)の語源とされていますが、坂本さんは「山媛呼(やまひこ=山でオトタチバナをしのぶ叫び声)」と名付け、自身の詩作の中に織り込んでいったといいます。
皇后陛下は平成10年(1998年)、講演で少女時代にオトタチバナの物語を読んだ経験を紹介され、「愛と犠牲という二つが最も近いもの、むしろ一つのものとして感じられた」と感想を述べられています。
男からの押し付けではない、女性の意志としての犠牲、それは男性からの愛への感謝もありながら、自然な行動だったのでしょう。古代日本におけるこうした女性本位の行動にスポットを当てた、ミュージカルという企画、是非楽しみにしたいと思います。
【関連記事】
・【古事記を彩る姫たち】オトタチバナ - ヤマトタケルの愛をもらい、夫を支えた賢妻
オトタチバナは、ヤマトタケルの妻で、ヤマトタケルの東国遠征に同行。その直前、ヤマトタケルはオトタチバナを娶ったばかりでの東国遠征に不安を感じ、伊射奈岐神社(奈良県・天理市)に戦勝を祈願したとも伝えられ、当時のことですので、ヤマトタケルには複数の妻はいましたが、その中でもオトタチバナをいかに大事にしていたのかがうかがえます。
相模の国に入り、その地の国造に、ヤマトタケル一行は騙し討ちを仕掛けられ、火攻めに遭います。この恐慌状態の中でも、ヤマトタケルはオトタチバナを気遣い、守り抜いたと言われています。
その窮地を脱した後、一行は走水の海を渡ることになりますが、ここで海神が一行の行く手を邪魔し、渡海できません。そこでオトタチバナが、自分の身を犠牲に、入水して海神の怒りを鎮めることを決意し、実行します。そうして一行は無事に渡海することができました。
その入水に際して、オトタチバナは辞世の歌を残しています。それによれば、相模の国での騙し討ちの際、ヤマトタケルがオトタチバナを気遣い、かばい続けたこと、その愛への感謝がつづられています。
七日後にオトタチバナの櫛が漂着し、ヤマトタケルはそれを埋葬し、オトタチバナの墓とします。それが今の吾妻神社(神奈川県・二宮町)です。
東国遠征も終わり、都への帰途、ヤマトタケルは足柄の峠で、「ああ、吾妻よー」と嘆きます。古事記ではこれが東(あずま)の語源とされていますが、坂本さんは「山媛呼(やまひこ=山でオトタチバナをしのぶ叫び声)」と名付け、自身の詩作の中に織り込んでいったといいます。
皇后陛下は平成10年(1998年)、講演で少女時代にオトタチバナの物語を読んだ経験を紹介され、「愛と犠牲という二つが最も近いもの、むしろ一つのものとして感じられた」と感想を述べられています。
男からの押し付けではない、女性の意志としての犠牲、それは男性からの愛への感謝もありながら、自然な行動だったのでしょう。古代日本におけるこうした女性本位の行動にスポットを当てた、ミュージカルという企画、是非楽しみにしたいと思います。
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