・所在地:兵庫県篠山市東本荘
・時 期:5世紀前半
・時 代:古墳時代中期中盤
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:陵墓参考地
【概要】
宮内庁により「雲部陵墓参考地」(被葬候補者:第九代開化天皇皇孫彦坐王王子丹波道主命)として陵墓参考地に指定されている。
篠山盆地の東辺に位置し、前方部を東向きに築かれている。墳丘長140メートル、前方部幅89メートル・高さ11メートル、後円部径80メートル・高さ13メートル、丹波地方では最大、兵庫県内では五色塚古墳(神戸市垂水区)に次いで第2位の大きさ。
明治29年(1896年)に地元民により発掘が行われ、長持形石棺や多数の副葬品が出土したが、全て埋め戻されたという。明治33年(1900年)に当時の宮内省により陵墓参考地に指定された。
築造の年代は5世紀前半とされる。墳丘は三段造成で、葺石・埴輪が認められる。埋葬施設は竪穴式石室で、中央に長持形石棺が配置されているという。
陪塚は、2基が主墳を挟んで北と南の対称位置にある。北は径30メートルの円墳、南は一辺25メートルの方墳である。
第九代開化天皇の皇孫にあたり、開化天皇の皇子であるヒコイマスを父とする、ヒコタタスミチノウシが被葬者候補。
ヒコタタスミチノウシの娘の多くが、第十一代垂仁天皇に嫁いでいる。その中でヒバスヒメが後の皇后となり、多くの子宝に恵まれ、マトノヒメは悲劇の姫として古事記では描かれている。
祖父の開化天皇の陵は念仏寺山古墳(奈良県・奈良市)に、父のヒコイマスの墓は日子坐命墓(岐阜県・岐阜市)に、娘のヒバスヒメの陵はヒバスヒメの陵は佐紀陵山古墳(奈良県・奈良市)に、それぞれ治定されている。
【関連サイト】
・雲部車塚古墳 - Wikipedia
・時 期:5世紀前半
・時 代:古墳時代中期中盤
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:陵墓参考地
【概要】
宮内庁により「雲部陵墓参考地」(被葬候補者:第九代開化天皇皇孫彦坐王王子丹波道主命)として陵墓参考地に指定されている。
篠山盆地の東辺に位置し、前方部を東向きに築かれている。墳丘長140メートル、前方部幅89メートル・高さ11メートル、後円部径80メートル・高さ13メートル、丹波地方では最大、兵庫県内では五色塚古墳(神戸市垂水区)に次いで第2位の大きさ。
明治29年(1896年)に地元民により発掘が行われ、長持形石棺や多数の副葬品が出土したが、全て埋め戻されたという。明治33年(1900年)に当時の宮内省により陵墓参考地に指定された。
築造の年代は5世紀前半とされる。墳丘は三段造成で、葺石・埴輪が認められる。埋葬施設は竪穴式石室で、中央に長持形石棺が配置されているという。
陪塚は、2基が主墳を挟んで北と南の対称位置にある。北は径30メートルの円墳、南は一辺25メートルの方墳である。
第九代開化天皇の皇孫にあたり、開化天皇の皇子であるヒコイマスを父とする、ヒコタタスミチノウシが被葬者候補。
ヒコタタスミチノウシの娘の多くが、第十一代垂仁天皇に嫁いでいる。その中でヒバスヒメが後の皇后となり、多くの子宝に恵まれ、マトノヒメは悲劇の姫として古事記では描かれている。
祖父の開化天皇の陵は念仏寺山古墳(奈良県・奈良市)に、父のヒコイマスの墓は日子坐命墓(岐阜県・岐阜市)に、娘のヒバスヒメの陵はヒバスヒメの陵は佐紀陵山古墳(奈良県・奈良市)に、それぞれ治定されている。
【関連サイト】
・雲部車塚古墳 - Wikipedia
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