・所在地:奈良県北葛城郡広陵町赤部
・大王(オオキミ)墓候補
・時 期:5世紀前半
・時 代:古墳時代中期中盤
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:陵墓参考地
【概要】
宮内庁により「三吉陵墓参考地」(被葬候補者:第三十代敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子舒明天皇御父)として陵墓参考地に治定されている。
古事記にはオサカノヒコヒトとして記載のある皇子。墓の記載はない。
馬見古墳群に属する、墳丘長200メートル、後円部径117メートル、高さ19メートル、前方部幅118メートルの巨大前方後円墳。
南北走向の低位丘陵から東へ派生する小支丘を利用して築造されており、墳丘の主軸はおおむね東西にあり、両くびれ部に造り出しが存在する。
その形態は巣山古墳のものに似ている。濠の幅は後円部で18メートル、前方部で22メートルほど。外堤は水田、畑の畦畔として残っており、幅約20メートル前後、高さは3メートル以上あったと考えられる。
墳丘内に埴輪列が存在することが確かめられている。また出土遺物として宮内庁に勾玉、管玉、棗玉などが所蔵されている。採集された方形透かしと有黒斑の円筒埴輪から、5世紀前半の築造と考えられる。馬見古墳群中央群では最後の大型前方後円墳。
後円部西側には、主軸を同じくする帆立貝形古墳の三吉石塚古墳(県指定史跡)が、外提に接して造られている。
オサカノヒコヒトは父が第三十代敏達天皇、母がヒロヒメ。古事記に記載される最後の天皇、第三十四代舒明天皇の父である。現在の皇統の直接の祖にあたる。
父・敏達天皇の陵は太子西山古墳(大阪府・太子町)に、母ヒロヒメの陵は村居田古墳(滋賀県・米原市)に、子である舒明天皇の陵は段ノ塚古墳(奈良県・桜井市)に、それぞれ治定されている。 【関連サイト】
・新木山古墳 - Wikipedia
【関連記事】
・河上邦彦『大和葛城の大古墳群―馬見古墳群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)』
・大王(オオキミ)墓候補
・時 期:5世紀前半
・時 代:古墳時代中期中盤
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:陵墓参考地
【概要】
宮内庁により「三吉陵墓参考地」(被葬候補者:第三十代敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子舒明天皇御父)として陵墓参考地に治定されている。
古事記にはオサカノヒコヒトとして記載のある皇子。墓の記載はない。
馬見古墳群に属する、墳丘長200メートル、後円部径117メートル、高さ19メートル、前方部幅118メートルの巨大前方後円墳。
南北走向の低位丘陵から東へ派生する小支丘を利用して築造されており、墳丘の主軸はおおむね東西にあり、両くびれ部に造り出しが存在する。
その形態は巣山古墳のものに似ている。濠の幅は後円部で18メートル、前方部で22メートルほど。外堤は水田、畑の畦畔として残っており、幅約20メートル前後、高さは3メートル以上あったと考えられる。
墳丘内に埴輪列が存在することが確かめられている。また出土遺物として宮内庁に勾玉、管玉、棗玉などが所蔵されている。採集された方形透かしと有黒斑の円筒埴輪から、5世紀前半の築造と考えられる。馬見古墳群中央群では最後の大型前方後円墳。
後円部西側には、主軸を同じくする帆立貝形古墳の三吉石塚古墳(県指定史跡)が、外提に接して造られている。
オサカノヒコヒトは父が第三十代敏達天皇、母がヒロヒメ。古事記に記載される最後の天皇、第三十四代舒明天皇の父である。現在の皇統の直接の祖にあたる。
父・敏達天皇の陵は太子西山古墳(大阪府・太子町)に、母ヒロヒメの陵は村居田古墳(滋賀県・米原市)に、子である舒明天皇の陵は段ノ塚古墳(奈良県・桜井市)に、それぞれ治定されている。 【関連サイト】
・新木山古墳 - Wikipedia
【関連記事】
・河上邦彦『大和葛城の大古墳群―馬見古墳群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)』
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