五社神古墳(奈良県・奈良市)、神功皇后陵「狹城楯列池上陵」の拝所入口、宮内庁看板 - ぶっちゃけ古事記
奈良県奈良市山陵町

訪問日:2014年10月17日午後

きれいに整備された石畳を進み、拝所に向かいます。

宮内庁看板以降、特に何位も標識はなかったような気はしますが、ここまできれいに整備された石畳なら、それがそのはず、ということで、進んでいくと、案の定拝所に到着。
五社神古墳(奈良県・奈良市)、神功皇后陵「狹城楯列池上陵」の拝所 - ぶっちゃけ古事記
第十四代仲哀天皇の皇后である神功皇后は、遡れば第九代開化天皇まで辿り着きます。

その玄孫の子なので、今の感覚でもすでに皇族ではないかもしれませんが、当時としても少し遠いとは思われていたかもしれません。

が、古事記の記載を信じる限り、天皇家の血が流れている女性です。
五社神古墳(奈良県・奈良市)、神功皇后陵「狹城楯列池上陵」の拝所遠景 - ぶっちゃけ古事記
母方は、新羅王子・天日矛の血も入っているので、半島とのかかわりの深さを感じさせます。

古事記のあまりにも詳しすぎる神功皇后の出自の記述によって、その子である応神天皇からの新王朝説の一つの根拠ともなりえるのかもしれません。

いわゆる河内王朝などと呼ばれるものです。
五社神古墳(奈良県・奈良市)、神功皇后陵「狹城楯列池上陵」の拝所前広場にある石碑 - ぶっちゃけ古事記
第十五代応神天皇から第十六代仁徳天皇、その皇子である第十七代履中天皇たちが跡を継いでいく中で、確かに前代とは一線を画す大きな変化が感じられます。

しかし、全く隔絶しているとも考えづらい。

連続性の中での大きな飛躍、という感じです。

万世一系へのこだわりはありませんが、皇統は断続的に続いていたのではないかと思われます。
五社神古墳(奈良県・奈良市)、神功皇后陵「狹城楯列池上陵」の拝所近影 - ぶっちゃけ古事記
その大きな飛躍の源泉こそ、やはり神功皇后ではないのか、と思われます。

三韓征伐が史実かどうかはともかく、半島との戦争を含めた交流はかなり活発になったことは間違いなく、それは古事記からだけでも、神功皇后以前と以後の半島に関する描写の多寡や違いからでもうかがえ、それが新羅の血を引く神功皇后の功績と考えても特におかしくはありません。
五社神古墳(奈良県・奈良市)、神功皇后陵「狹城楯列池上陵」の拝所前広場右手から陵墓本体を望む - ぶっちゃけ古事記
また、九州とも縁が深いことが指摘されます。

住吉三神(ソコツツノヲノカミナカツツノヲノカミウハツツノヲノカミ)が好例です。

神功皇后をきっかけとして、住吉三神が畿内にも大挙して流入してきたのではないかと思われます。これは、九州の巨大勢力による物資、技術の畿内への流入とも考えられるわけです。

人によっては邪馬台国東遷も連想させる、かもしれません。
五社神古墳(奈良県・奈良市)、神功皇后陵「狹城楯列池上陵」の拝所と陵墓、遠景 - ぶっちゃけ古事記
その片腕となったのがやはり第八代孝元天皇に連なるという建内宿禰

皇統から遠い者同士、馬があったのかもしれません。

皇統に連なるとはいえ、遠くて、本来であれば主流を占めるところにはない者同士、伝統を維持しつつも、主流という保守派(例えば、夫・仲哀天皇のようなヤマトタケルの血を引く高貴なサラブレッド)ではなしえない、非主流だからこその革新さを活かし、半島や九州などの勢力を取り込み、新たな飛躍を遂げた、その端緒が神功皇后説話となっているような気がします。

だから、応神天皇の父は建内宿禰と考えても突飛ではないような気がします。やはり宮内庁治定が正しいという前提で、応神、仁徳、履中という三代、日本の古墳ランキングTOP3の大王が出現するという、その国力の飛躍的増強に一役買った古代日本の女傑、それが神功皇后だったのではないでしょうか。

なお、神功皇后陵「狹城楯列池上陵」に治定されているこの五社神古墳も、古墳ランキング12位の巨大な前方後円墳です。

今回は大和の巨大古墳も多く回りましたが、上述のように、古墳の系譜で言えば、今後舞台は難波、河内に遷っていきます。

それがつまり、仁徳・履中の両陵を有す百舌鳥古墳群であり、応神陵を有す古市古墳群で、世界遺産登録を目指す百舌鳥・古市古墳群です。

古事記紀行2015の最右翼ですが、果たして。とりあえず、古事記紀行2014はここまでです。
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