佐紀石塚山古墳(奈良県・奈良市)、第十三代成務天皇「狹城盾列池後陵」の宮内庁看板 - ぶっちゃけ古事記
奈良県奈良市山陵町

訪問日:2014年10月17日午後

なぜ非実在とされなければならないのか、理解に苦しむ。素直に記紀を読めばいいのに。

第十二代景行天皇の皇子であり、第十三代天皇。それが成務天皇です。

記紀にあまり事績が記載されていないがゆえに、非実在説がある天皇の一人です。事績の記載が少ないから架空ねって、ちょっと乱暴すぎないですか?

記録が残っており、宮や年齢、妻や子が伝わっていれば、十分じゃないでしょうか?

昔のことに完ぺきな資料を求める方が、現代人のエゴ。

まあ、年齢が100歳を軽くオーバーとか、そんな超人が何人もいるとか、何か解釈が必要なのは認めますが。
佐紀石塚山古墳(奈良県・奈良市)、第十三代成務天皇「狹城盾列池後陵」の遠景 - ぶっちゃけ古事記
資料や証拠がないと断定できない、という姿勢も首をかしげる。それが科学的な態度なのかもしれないけど、そんなこと言っていたら、歴史は何にもわかんなくなっちゃわない?

そういう意味では、宮内庁による治定は多くの問題を抱えながらもある意味スゴイ。あまり根拠がないのに断定しちゃっているわけなので。いい意味でも悪い意味でも普通はできないこと。

でも、だからこそ、「いや、宮内庁の治定は違う」とか、新たな研究が進んでいる、というのも事実。

個人的に治定陵の発掘研究は徐々にでもするべきだとは思いますが、やみくもに宮内庁を批判するのもまた違うと思います。
佐紀石塚山古墳(奈良県・奈良市)、第十三代成務天皇「狹城盾列池後陵」の拝所 - ぶっちゃけ古事記
ともかく、第十三代成務天皇。

古事記にはホントあんま記載がなくて、景行天皇の皇太子だったこと、その異母兄弟にヤマトタケルがいたこと、即位して都がなぜか近江だったこと、皇后がいて自分の子がいるのにやはりなぜか突然ヤマトタケルの子である仲哀天皇が次代の第十四代天皇になっていること。

そして、その御世に建内宿禰が大臣デビューしていること。それに合わせて、大国や小国の国造、大県や小県の県主などの整備が図られたこと。

ぐらいでしょうか。
佐紀石塚山古墳(奈良県・奈良市)、第十三代成務天皇「狹城盾列池後陵」の拝所近影 - ぶっちゃけ古事記
まあ、でも1300年後、このぐらいの記述しか残らない現代の総理大臣も多そうな気はしますが。その意味では十分。建内宿禰の起用や、国の整備、つまり内政に尽力されたんだな、と。日本書紀はじめその他の資料で補足すると、父である景行天皇の晩年、近江に遷都したので、それに付き従い、景行天皇崩御後、父の遺徳を偲んでそのまま近江にとどまった、と言います。何という人情家。

また、父は遠ざけていたヤマトタケルですが、客観的に見て大活躍しており、畏敬に値する異母兄弟だったので、自分に子がありながら、後継者にヤマトタケルの子を指名した、と言います。これでヤマトタケルの血筋が永続・繁栄するなら何らかの作為の匂いがしそうですが、そのヤマトタケルの子・仲哀天皇は後に急死してしまうので、逆にこの成務天皇の後継者指名の話は信ぴょう性が高いような気がします。
佐紀石塚山古墳(奈良県・奈良市)、第十三代成務天皇「狹城盾列池後陵」の周濠と陵墓本体 - ぶっちゃけ古事記
1800年以上前の方です。その思って見れば、上記だけでも十分人物が描かれているような気がしますが、何か? これでイメージできないというのであれば、その貧困さを嘆くべきですよね。と、そんなことを思いつつ、参拝。

日本の古墳ランキングでは25位にランキングするこの佐紀石塚山古墳、成務天皇陵「狹城盾列池後陵」は、平安時代の昔から、この北にある神功皇后陵と取り間違えられたという経緯もあり、その意味では治定1000年以上。その実在も含め、治定も相応に信頼できる陵の一つなのかもしれません。
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