記紀に記された甲斐国酒折宮、文人・皇族が参拝した連歌発祥の地
[住所]山梨県甲府市酒折3-1-13
[電話]055-231-2690
酒折宮(さかおりみや/さかおりのみや)は、山梨県甲府市酒折にある神社。御祭神は日本武尊。近代社格では村社。例祭は10月21日。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『古事記』『日本書紀』にある日本武尊の東征において、帰路に立ち寄った甲斐国酒折宮を継承する社だとされている(『古事記』該当部分)。つまり、国史見在社。
行在中に日本武尊が塩海足尼を召して甲斐国造に任じて火打袋を授け、「行く末はここに鎮座しよう」と宣言、塩海足尼がその火打袋を御神体として創祀したと伝わる。
この火打袋は、日本武尊が相模の地で危機に陥った時、助けてくれたという、伯母の倭姫命から授かった神宝だろうか(『古事記』該当部分)。
『古事記』には塩海足尼の名は出てこないが、老人との歌のやり取りは掲載されている(日本武尊の歌、老人の歌)。これが連歌発祥とされ、当社はその発祥地として、特に近世以降有名になった。
日本武尊の東征経路は、古代律令制下の官道においては往路が東海道、帰路が東山道にあたっている。
また「倉野之坂」や「碓日坂」はいずれも令制国の国境に位置し、甲斐国は東海道と東山道の結節点に位置することから、当社も「坂」に関係する祭祀を司っていたとの指摘がある。
当社はもとは通称「月見山」または「酒折山」と呼ばれた御室山の中腹、現在の古天神の場所に鎮座しており、後に現在地に遷座したという。
御室山の山中・山麓には多くの古墳・遺跡が残っており、古来から信仰されていた様子がうかがわれる。
現在はこの古天神の地が酒折宮旧跡とされ、巨石に万葉仮名で彫られた「連歌の碑」がある。平成12年(2000年)からは「酒折連歌賞」も開催されている。
当社由緒書には、武田氏滅亡後の織田氏の時代に、それまでの社領200石を取り上げられ、神官が苦しさを嘆いた様子が記されている。
江戸時代になると、本格的に記紀の「酒折宮」比定、連歌発祥地としての認識が広まり、多くの文人らが来訪するようになった。
貞享3年(1686年)には俳人大淀三千風が来訪し、『甲斐叢書』など地誌類においても記録されている。
また、絵画作品では土佐光起『酒折宮連歌図』などの作品が描かれて、歌川広重『甲州日記』においてもスケッチが記されている。
明治になり、村社に列し、明治13年(1880年)6月に明治天皇巡幸の際、徳大寺侍従長が代拝したのをはじめ、皇族などの参拝が数多くあった。
現在の社殿は、大正5年(1916年)に火災で焼失した後に新築したもので、昭和17年(1942年)11月に竣工したもの。
【ご利益】
学業・受験合格、技芸・スポーツ上達(公式HP)
【関連記事】
・国史見在社 - 『延喜式』に先行する六国史に記載のある神社で、式外社を指すことが多い
・山梨県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、山梨県に鎮座している神社の一覧
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酒折宮(さかおりみや/さかおりのみや)は、山梨県甲府市酒折にある神社。御祭神は日本武尊。近代社格では村社。例祭は10月21日。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『古事記』『日本書紀』にある日本武尊の東征において、帰路に立ち寄った甲斐国酒折宮を継承する社だとされている(『古事記』該当部分)。つまり、国史見在社。
行在中に日本武尊が塩海足尼を召して甲斐国造に任じて火打袋を授け、「行く末はここに鎮座しよう」と宣言、塩海足尼がその火打袋を御神体として創祀したと伝わる。
この火打袋は、日本武尊が相模の地で危機に陥った時、助けてくれたという、伯母の倭姫命から授かった神宝だろうか(『古事記』該当部分)。
『古事記』には塩海足尼の名は出てこないが、老人との歌のやり取りは掲載されている(日本武尊の歌、老人の歌)。これが連歌発祥とされ、当社はその発祥地として、特に近世以降有名になった。
日本武尊の東征経路は、古代律令制下の官道においては往路が東海道、帰路が東山道にあたっている。
また「倉野之坂」や「碓日坂」はいずれも令制国の国境に位置し、甲斐国は東海道と東山道の結節点に位置することから、当社も「坂」に関係する祭祀を司っていたとの指摘がある。
当社はもとは通称「月見山」または「酒折山」と呼ばれた御室山の中腹、現在の古天神の場所に鎮座しており、後に現在地に遷座したという。
御室山の山中・山麓には多くの古墳・遺跡が残っており、古来から信仰されていた様子がうかがわれる。
現在はこの古天神の地が酒折宮旧跡とされ、巨石に万葉仮名で彫られた「連歌の碑」がある。平成12年(2000年)からは「酒折連歌賞」も開催されている。
当社由緒書には、武田氏滅亡後の織田氏の時代に、それまでの社領200石を取り上げられ、神官が苦しさを嘆いた様子が記されている。
江戸時代になると、本格的に記紀の「酒折宮」比定、連歌発祥地としての認識が広まり、多くの文人らが来訪するようになった。
貞享3年(1686年)には俳人大淀三千風が来訪し、『甲斐叢書』など地誌類においても記録されている。
また、絵画作品では土佐光起『酒折宮連歌図』などの作品が描かれて、歌川広重『甲州日記』においてもスケッチが記されている。
明治になり、村社に列し、明治13年(1880年)6月に明治天皇巡幸の際、徳大寺侍従長が代拝したのをはじめ、皇族などの参拝が数多くあった。
現在の社殿は、大正5年(1916年)に火災で焼失した後に新築したもので、昭和17年(1942年)11月に竣工したもの。
【ご利益】
学業・受験合格、技芸・スポーツ上達(公式HP)
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