奈良県奈良市法蓮町
北緯34度69分95.48秒 東経135度81分55.17秒
1500年以上前に、反逆した人の墓が、今も残っているってすごくないですか?
・「大山守命
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大山守命(おおやまもりのみこと)は第十五代応神天皇の皇子の一人。皇后の子ではないが、年長の皇子の中では優秀で、次期天皇の呼び声も高かった、と思われます。その分自意識も極めて強かったのでしょう。 しかし、皇后ナカツヒメの子には、こちらも優秀で名が通っていたと思われる大雀命がおり、しかも、応神天皇自身の御心は愛妃ヤカワエとの子で、極めて年少と思われる和紀郎子にあった、という。 こうした背景がある中で、ある意味では応神天皇、古事記での唯一の見せ場、皇太子決めの大山守命と大雀命に対する問答が始まります。父は、二人の息子に、「子の中で長じた者と、幼い者、どちらがよりかわいいだろうか」と問います。 年長者の大山守命、迷わず即答して「年上の方がかわいい」と。大雀命、父の御心を読み取って、「年少のものがかわいい」と。それぞれ答えます。応神天皇は大雀命の答えに満足して、和紀郎子を皇太子にすることを宣言、大雀命は重用され、大山守命は遠ざけられます。 応神天皇が崩御すると、納得のいかない大山守命、反逆します。それを察知した大雀命は、早速和紀郎子にご注進。「アイツ、反逆するみたいよ」。和紀郎子、それを聞いて、先手を打ちます。ちなみに、大雀命が後の第十六代仁徳天皇。 宇治川まで進んできた大山守命は、一人渡河しようと、そこにいた船頭の船に乗っけてもらいます。この船頭が、実は和紀郎子が化けていた。船は川の中ほどまで行くと、船頭、改め和紀郎子は船を揺らして、大山守命を川に突き落とします。 溺れる大山守命は船頭に命乞いしますが、船頭もとい和紀郎子は、伏せていた兵に弓矢を射かけることを命じます。たくさんの矢を受けた大山守命は絶命、川底に沈みます。それを引き上げた時に、大山守命が着込んでいた鎧の音がカランカランと鳴ったので、その地が訶和羅之前(かわらのさき)と呼ばれるようになります。 大山守命の遺骸を引き上げた和紀郎子は、これを丁重に那良山に葬りました。これが那羅山墓、つまり大山守命墓です。
非常によくまとまったお話になっており、多くの日本人にとって、特に違和感は感じられないかもしれません。しかし、ちょっと考えると、「なんで反逆者の墓があって、それが今でも大事に管理されている?」という疑問がわくと思います。
普通の国であれば、反逆者が丁重に祀られることはないし、しかもそれが1500年以上にもわたって存続し、今でも管理されるなどということは絶対にありえません。あったとしても、死後も懲罰の対象にするための施設ぐらい。
一方、日本では大山守命に限らず、反逆者は普通に祀られています。平将門しかり。将門は明らかに怨霊を恐れた当時の為政者や、怨霊を恐れ続けた今に連なる歴代の為政者、そしてそうした感情を共有していた人々によって祀られ続けたものです。大山守命も、それに先立つこと数百年前の前例、と考えてよいのかもしれません。
別にこれは大山守命や平将門に限らず、死ねば無罪放免、死者は祀れば神、という考え(←ここが世界的に理解しづらい)につながる、と思考を進めれば、日本に数多ある例ですし、靖国神社にも共通している感情だ、ということは、容易に理解できるものと思われます。
日本人にとって、あまりにも一般的になり過ぎているので気づかない、日本の常識は世界の非常識。ただし、世界の非常識だからと言って改める必要は全くなく、それが日本人の価値観なのだ、と自覚し、それを世界に分かりやすく説明できればよいと思います。
しかし、あまりにも非常識なので、世界の人々を納得せることは難しいかもしれません。でも、それが日本、そして日本人なのであって、ある意味ではアイデンティティ、妥協するところではないと思われます。
古事記の説話はそういうことも教えてくれます。 古事記紀行2014 > (10)大山守命墓 - 那羅山墓
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・【古事記紀行2014】(10)反逆し水没し、遺骸引き揚げられて埋葬された大山守命の墓
北緯34度69分95.48秒 東経135度81分55.17秒
1500年以上前に、反逆した人の墓が、今も残っているってすごくないですか?
・「大山守命
大山守命(おおやまもりのみこと)は第十五代応神天皇の皇子の一人。皇后の子ではないが、年長の皇子の中では優秀で、次期天皇の呼び声も高かった、と思われます。その分自意識も極めて強かったのでしょう。 しかし、皇后ナカツヒメの子には、こちらも優秀で名が通っていたと思われる大雀命がおり、しかも、応神天皇自身の御心は愛妃ヤカワエとの子で、極めて年少と思われる和紀郎子にあった、という。 こうした背景がある中で、ある意味では応神天皇、古事記での唯一の見せ場、皇太子決めの大山守命と大雀命に対する問答が始まります。父は、二人の息子に、「子の中で長じた者と、幼い者、どちらがよりかわいいだろうか」と問います。 年長者の大山守命、迷わず即答して「年上の方がかわいい」と。大雀命、父の御心を読み取って、「年少のものがかわいい」と。それぞれ答えます。応神天皇は大雀命の答えに満足して、和紀郎子を皇太子にすることを宣言、大雀命は重用され、大山守命は遠ざけられます。 応神天皇が崩御すると、納得のいかない大山守命、反逆します。それを察知した大雀命は、早速和紀郎子にご注進。「アイツ、反逆するみたいよ」。和紀郎子、それを聞いて、先手を打ちます。ちなみに、大雀命が後の第十六代仁徳天皇。 宇治川まで進んできた大山守命は、一人渡河しようと、そこにいた船頭の船に乗っけてもらいます。この船頭が、実は和紀郎子が化けていた。船は川の中ほどまで行くと、船頭、改め和紀郎子は船を揺らして、大山守命を川に突き落とします。 溺れる大山守命は船頭に命乞いしますが、船頭もとい和紀郎子は、伏せていた兵に弓矢を射かけることを命じます。たくさんの矢を受けた大山守命は絶命、川底に沈みます。それを引き上げた時に、大山守命が着込んでいた鎧の音がカランカランと鳴ったので、その地が訶和羅之前(かわらのさき)と呼ばれるようになります。 大山守命の遺骸を引き上げた和紀郎子は、これを丁重に那良山に葬りました。これが那羅山墓、つまり大山守命墓です。
非常によくまとまったお話になっており、多くの日本人にとって、特に違和感は感じられないかもしれません。しかし、ちょっと考えると、「なんで反逆者の墓があって、それが今でも大事に管理されている?」という疑問がわくと思います。
普通の国であれば、反逆者が丁重に祀られることはないし、しかもそれが1500年以上にもわたって存続し、今でも管理されるなどということは絶対にありえません。あったとしても、死後も懲罰の対象にするための施設ぐらい。
一方、日本では大山守命に限らず、反逆者は普通に祀られています。平将門しかり。将門は明らかに怨霊を恐れた当時の為政者や、怨霊を恐れ続けた今に連なる歴代の為政者、そしてそうした感情を共有していた人々によって祀られ続けたものです。大山守命も、それに先立つこと数百年前の前例、と考えてよいのかもしれません。
別にこれは大山守命や平将門に限らず、死ねば無罪放免、死者は祀れば神、という考え(←ここが世界的に理解しづらい)につながる、と思考を進めれば、日本に数多ある例ですし、靖国神社にも共通している感情だ、ということは、容易に理解できるものと思われます。
日本人にとって、あまりにも一般的になり過ぎているので気づかない、日本の常識は世界の非常識。ただし、世界の非常識だからと言って改める必要は全くなく、それが日本人の価値観なのだ、と自覚し、それを世界に分かりやすく説明できればよいと思います。
しかし、あまりにも非常識なので、世界の人々を納得せることは難しいかもしれません。でも、それが日本、そして日本人なのであって、ある意味ではアイデンティティ、妥協するところではないと思われます。
古事記の説話はそういうことも教えてくれます。 古事記紀行2014 > (10)大山守命墓 - 那羅山墓
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