・所在地:大阪府太子町大字太子
・経緯度:北緯34度51分18.01秒 東経135度63分56.79秒
・時 期:-
・時 代:古墳時代後期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定
【概要】
宮内庁により「河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)」として第三十代敏達天皇の陵に治定されている。
西山古墳は全国に同じような名の古墳がいくつもあり、地名を冠して太子西山古墳と呼ばれる。奥城古墳とも。
磯長谷古墳群に属する前方後円墳で、二段構築された後円部径58メートル、高さ11メートル、前方部の最大幅は67メートル、高さ12メートル、墳丘長113メートル。前方部と後円部のつなぎ目である括れ部の幅は50メートル。両側方形に造り出し部の付設がある。
墳丘の周囲には、今は空堀となっている周濠がある。これらの外周施設をふくめた兆域の全長が128メートルになる。円筒埴輪などが採取されており、墳丘には埴輪の配列がなされていた。
敏達天皇は、父が第二十九代欽明天皇。最初の皇后の死後に立后したのが、異母妹の豊御気炊屋比売命(とよみけかしぎやひめのみこと)、つまり後の第三十三代推古天皇。
先の皇后ヒロヒメとの間にオサカノヒコヒトらをもうけ、オサカノヒコヒトは第三十四代舒明天皇の父となる。天皇家の系譜も参照。
なお、父の欽明天皇の陵は梅山古墳(奈良県・明日香村)に、皇后の推古天皇の陵は山田高塚古墳(大阪府・太子町)に、治定され、推古天皇との子であるタケダの墓は植山古墳(奈良県・橿原市)が有力とされる。
なお、ヒロヒメの陵は村居田古墳(滋賀県・米原市)に、子のオサカノヒコヒトの墓は新木山古墳(奈良県・北葛城郡)に、それぞれ治定されている。
【関連サイト】
・太子西山古墳
・経緯度:北緯34度51分18.01秒 東経135度63分56.79秒
・時 期:-
・時 代:古墳時代後期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定
【概要】
宮内庁により「河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)」として第三十代敏達天皇の陵に治定されている。
西山古墳は全国に同じような名の古墳がいくつもあり、地名を冠して太子西山古墳と呼ばれる。奥城古墳とも。
磯長谷古墳群に属する前方後円墳で、二段構築された後円部径58メートル、高さ11メートル、前方部の最大幅は67メートル、高さ12メートル、墳丘長113メートル。前方部と後円部のつなぎ目である括れ部の幅は50メートル。両側方形に造り出し部の付設がある。
墳丘の周囲には、今は空堀となっている周濠がある。これらの外周施設をふくめた兆域の全長が128メートルになる。円筒埴輪などが採取されており、墳丘には埴輪の配列がなされていた。
敏達天皇は、父が第二十九代欽明天皇。最初の皇后の死後に立后したのが、異母妹の豊御気炊屋比売命(とよみけかしぎやひめのみこと)、つまり後の第三十三代推古天皇。
先の皇后ヒロヒメとの間にオサカノヒコヒトらをもうけ、オサカノヒコヒトは第三十四代舒明天皇の父となる。天皇家の系譜も参照。
なお、父の欽明天皇の陵は梅山古墳(奈良県・明日香村)に、皇后の推古天皇の陵は山田高塚古墳(大阪府・太子町)に、治定され、推古天皇との子であるタケダの墓は植山古墳(奈良県・橿原市)が有力とされる。
なお、ヒロヒメの陵は村居田古墳(滋賀県・米原市)に、子のオサカノヒコヒトの墓は新木山古墳(奈良県・北葛城郡)に、それぞれ治定されている。
【関連サイト】
・太子西山古墳
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