奈良県奈良市今辻子町
訪問日:2014年10月17日
これ以上大回りできないぐらい大回りして、ようやく到着。
念仏寺山古墳、宮内庁により「春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)」として治定されている第九代開化天皇の陵です。古事記には陵について、「伊邪河の坂の上」とあります。
参道にビルが迫っている感じ、町中にあることを象徴しています。
墳丘全長は105メートル。巨大は巨大ですが、古墳ランキングは200メートル超級なので、ランクインしている古墳と比べると半分程度の大きさ。それでも間近を見て回ると、その大きさが実感できます。しっかし、この4倍以上の日本最大の大仙陵古墳って。。 開化天皇は、第八代孝元天皇の子で、子に第十代崇神天皇や、ヒコイマス(それぞれ母は違う)などがいます。ヒコイマスの子にサオビコ、サオビメという第十一代垂仁天皇の御世に活躍(?)する人物が出ますが、彼らは孫にあたります。
参道を進むと、うっそうと樹木が茂った墳丘が見えてきて、さすがにこの周りには高層の建物はありません。 欠史八代と言われる、実在が疑われる最後の天皇。次の崇神天皇から、何やら突如として実在した、ということ。やはり、そう考える方が不自然。拝所です。 治定陵には多々問題があるので、ここに埋葬されたかどうかは分かりませんが、古事記に明記されている以上、後世、開化天皇と呼ばれることになる人が存在したことは間違いなく、もっと素直に古事記を読めばよいような気がします。 さて、治定陵の話が出ましたが、今までに治定されている「欠史八代」を含む、初代神武天皇から、開化天皇の子、第十代崇神天皇までの陵について、地図上に印をつけてみました。 < 1>初代神武天皇の陵「畝傍山東北陵」四条ミサンザイ古墳(橿原市)
< 2>第二代綏靖天皇の陵「桃花鳥田丘上陵」四条塚山古墳(橿原市)
< 3>第三代安寧天皇の陵「畝傍山西南御陰井上陵」アネイ山古墳(橿原市)
< 4>第四代懿徳天皇の陵「畝傍山南繊沙渓上陵」マナゴ山古墳(橿原市)
< 5>第五代孝昭天皇の陵「掖上博多山上陵」博多山古墳(御所市)
< 6>第六代孝安天皇の陵「玉手丘上陵」玉手丘陵上古墳(御所市)
< 7>第七代孝霊天皇の陵「片丘馬坂陵」片丘馬坂古墳(北葛城郡)
< 8>第八代孝元天皇の陵「劔池嶋上陵」中山塚1-3号(橿原市)
< 9>第九代開化天皇の陵「春日率川坂上陵」念仏寺山古墳(奈良市)
<10>第十代崇神天皇の陵「山邊道勾岡上陵」行燈山古墳(天理市)
第七代孝霊天皇陵のみ離れてはいますが、およそ初代から第八代孝元天皇まで、比較的集中しているのに対して、開化天皇陵のみは一つだけ今の奈良市、ポツンと離れていることがよく分かります。いわゆる春日地方への進出を示唆しているのでしょうか。
しかし、次の世代、第十代崇神天皇のお墓となるとまた南下して桜井市方面に。崇神天皇は三輪山とのかかわりが深い天皇なので、そちらに比重を置いたのかもしれません。
ちなみに第十一代垂仁天皇はまた奈良市方面に、第十二代景行天皇は崇神天皇と同じように桜井市方面に陵墓を築くことになります。第十三代成務天皇はまた奈良市へ、そして第十五代応神天皇からは難波方面、墳丘が極度に巨大化していくことで知られています。
治定陵を信じれば、という前提で、本来は歴代天皇の皇居ともども考えなければならない問題ではありますが。
ただ、同じ奈良市でも、垂仁天皇陵や成務天皇陵、さらに第十四代仲哀天皇の皇后である神功皇后陵などが佐紀盾列古墳群に属してある程度近接しているのに比べ、開化天皇陵は一つポツンと存在している感じ。
その間には平城京などがあり、実際その造営のために破壊された古墳もあるようなので、本来は密集していたのかもしれませんが。
しつこいようですが、あくまで治定陵を信じれば、父である孝元天皇の陵から前方後円墳となった天皇陵を受け継ぎ、中規模な前方後円墳となった開化天皇。この崇神天皇陵はその大きさで全国クラスの前方後円墳となっていく、その過渡期にあたる、と言えます。 古事記紀行2014 > (8)開化天皇陵 > 開化天皇陵 【関連記事】
・【古事記紀行2014】(8)近鉄奈良駅から徒歩五分の開化天皇陵 “欠史”とは言わせない!
訪問日:2014年10月17日
これ以上大回りできないぐらい大回りして、ようやく到着。
念仏寺山古墳、宮内庁により「春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)」として治定されている第九代開化天皇の陵です。古事記には陵について、「伊邪河の坂の上」とあります。
参道にビルが迫っている感じ、町中にあることを象徴しています。
墳丘全長は105メートル。巨大は巨大ですが、古墳ランキングは200メートル超級なので、ランクインしている古墳と比べると半分程度の大きさ。それでも間近を見て回ると、その大きさが実感できます。しっかし、この4倍以上の日本最大の大仙陵古墳って。。 開化天皇は、第八代孝元天皇の子で、子に第十代崇神天皇や、ヒコイマス(それぞれ母は違う)などがいます。ヒコイマスの子にサオビコ、サオビメという第十一代垂仁天皇の御世に活躍(?)する人物が出ますが、彼らは孫にあたります。
参道を進むと、うっそうと樹木が茂った墳丘が見えてきて、さすがにこの周りには高層の建物はありません。 欠史八代と言われる、実在が疑われる最後の天皇。次の崇神天皇から、何やら突如として実在した、ということ。やはり、そう考える方が不自然。拝所です。 治定陵には多々問題があるので、ここに埋葬されたかどうかは分かりませんが、古事記に明記されている以上、後世、開化天皇と呼ばれることになる人が存在したことは間違いなく、もっと素直に古事記を読めばよいような気がします。 さて、治定陵の話が出ましたが、今までに治定されている「欠史八代」を含む、初代神武天皇から、開化天皇の子、第十代崇神天皇までの陵について、地図上に印をつけてみました。 < 1>初代神武天皇の陵「畝傍山東北陵」四条ミサンザイ古墳(橿原市)
< 2>第二代綏靖天皇の陵「桃花鳥田丘上陵」四条塚山古墳(橿原市)
< 3>第三代安寧天皇の陵「畝傍山西南御陰井上陵」アネイ山古墳(橿原市)
< 4>第四代懿徳天皇の陵「畝傍山南繊沙渓上陵」マナゴ山古墳(橿原市)
< 5>第五代孝昭天皇の陵「掖上博多山上陵」博多山古墳(御所市)
< 6>第六代孝安天皇の陵「玉手丘上陵」玉手丘陵上古墳(御所市)
< 7>第七代孝霊天皇の陵「片丘馬坂陵」片丘馬坂古墳(北葛城郡)
< 8>第八代孝元天皇の陵「劔池嶋上陵」中山塚1-3号(橿原市)
< 9>第九代開化天皇の陵「春日率川坂上陵」念仏寺山古墳(奈良市)
<10>第十代崇神天皇の陵「山邊道勾岡上陵」行燈山古墳(天理市)
第七代孝霊天皇陵のみ離れてはいますが、およそ初代から第八代孝元天皇まで、比較的集中しているのに対して、開化天皇陵のみは一つだけ今の奈良市、ポツンと離れていることがよく分かります。いわゆる春日地方への進出を示唆しているのでしょうか。
しかし、次の世代、第十代崇神天皇のお墓となるとまた南下して桜井市方面に。崇神天皇は三輪山とのかかわりが深い天皇なので、そちらに比重を置いたのかもしれません。
ちなみに第十一代垂仁天皇はまた奈良市方面に、第十二代景行天皇は崇神天皇と同じように桜井市方面に陵墓を築くことになります。第十三代成務天皇はまた奈良市へ、そして第十五代応神天皇からは難波方面、墳丘が極度に巨大化していくことで知られています。
治定陵を信じれば、という前提で、本来は歴代天皇の皇居ともども考えなければならない問題ではありますが。
ただ、同じ奈良市でも、垂仁天皇陵や成務天皇陵、さらに第十四代仲哀天皇の皇后である神功皇后陵などが佐紀盾列古墳群に属してある程度近接しているのに比べ、開化天皇陵は一つポツンと存在している感じ。
その間には平城京などがあり、実際その造営のために破壊された古墳もあるようなので、本来は密集していたのかもしれませんが。
しつこいようですが、あくまで治定陵を信じれば、父である孝元天皇の陵から前方後円墳となった天皇陵を受け継ぎ、中規模な前方後円墳となった開化天皇。この崇神天皇陵はその大きさで全国クラスの前方後円墳となっていく、その過渡期にあたる、と言えます。 古事記紀行2014 > (8)開化天皇陵 > 開化天皇陵 【関連記事】
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