・所在地:奈良県奈良市佐紀町2186-1

古墳ランキング > 14位
大王(オオキミ)墓候補

・時 期:5世紀前半
・時 代:古墳時代中期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定

【概要】
宮内庁により「楊梅陵(やまもものみささぎ)」として第五十一代平城天皇の陵に治定されている。

佐紀盾列古墳群の東群に属し、その中でも西端に位置する。前方後円墳であるが前方部は消滅し、現在残っているのは後円部の一部のみ。

平城宮大極殿跡のすぐ北に隣接しており、かつては直径100メートル超の最大級の円墳と思われていた。しかしその後の発掘調査で前方部が平城宮建設のさいに削平されており、本来は墳丘の全長253メートル 前方部の幅164メートル 後円部の直径147メートルの前方部を南に向けた前方後円墳であることが判明した。全国第14位の規模。

葺石、くびれ部分両側の造り出し、二重濠の一部分なども確認されている。この古墳と同様に平城宮建設の際に破壊された古墳としては、第2次大極殿跡の下に位置する神明野古墳(全長117メートル)がある。

平安時代には造られなかった前方後円墳であり、平城京の建設(奈良時代)以前から存在したこの古墳が、平安時代の平城天皇のために造られた古墳でないことは明らか。現在の治定が正しいとするなら、平城天皇には新たな陵墓が造られず既存の古墳に追墓されたことになる。ただし、やはり治定に対して否定的な意見の方が多い。

平城天皇(へいぜいてんのう、宝亀5年8月15日(774年9月25日)-弘仁15年7月7日(824年8月5日))は、在位が延暦25年3月17日(806年4月9日)-大同4年4月1日(809年5月18日)。平城京への遷都を画策したが失敗、薬子の変などを起こす。平城、奈良に深い愛着を持った天皇と考えられ、この追号が送られた。
市庭古墳(奈良県・奈良市) by Googleアース - ぶっちゃけ古事記
【関連サイト】
市庭古墳 - Wikipedia