・所在地:山口県下関市長府侍町1-10-2

・時 期:-
・時 代:-
・形 状:円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定

【概要】
日頼寺という寺院の隣の小高い丘の上が宮内庁によって治定されている。殯斂地は仮埋葬したところ。

古事記では、第十四代仲哀天皇は穴門之豐浦宮及筑紫訶志比宮にて政を執った、とされており、それぞれ穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)と筑紫橿日宮(つくしのかしいのみや)。

筑紫橿日宮で神功皇后が神懸りの時に急死したため、「坐殯宮」とある。日本書紀では、もう少し詳しく、武内宿禰(古事記での建内宿禰)がご遺骸を奉じて豊浦宮に戻り、殯斂したとある。

古事記にはそれ以上の記載はなく、仲哀天皇の本陵として「河內惠賀之長江」と記すのみ。現在は宮内庁によって岡ミサンザイ古墳(大阪府・藤井寺市)が「恵我長野西陵」に治定されている。

日本書紀にあるように、三韓征伐を終えた神功皇后一行が、都に戻る際にご遺骸を奉じたと考えられる。

現在、宮内庁によって管理されており、詳しいことは分かっていない。喪を秘すためにご遺骸を隠しやすく、かつ宗教的な意味があるとして選ばれた場所で、太陽観測点ではないかとの指摘もある。

【関連サイト】
仲哀天皇殯斂地
仲哀天皇殯斂地 隠した場所は太陽観測点だった?