・所在地:奈良県吉野郡大淀町今木

・時 期:-
・時 代:-
・形 状:円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定

【概要】
宮内庁により「坂合黒彦皇子墓」として第十九代允恭天皇の皇子クロヒコなどの墓に治定されている。

日本書紀が描くクロヒコは古事記と多少異なる。允恭天皇の後をついだ第二十代安康天皇マヨワに殺害され、クロヒコはマヨワをかばう。このことが大長谷命の怒りを買い、攻め立てられる。弟のシロヒコはその前まで大長谷命に惨殺され、クロヒコはマヨワとともに葛城円の邸宅に逃げ込み、葛城円の嘆願むなしく、大長谷命は三人まとめて攻め滅びし、燃やし殺し尽くす。

そのため、三人の遺骸が見分けがつかなくなり、「新漢槻本南丘」に合葬されたと言う。この「新漢槻本南丘」が現在「坂合黒彦皇子墓」と呼ばれている。

古事記では、大長谷命にシロヒコ、クロヒコが惨殺され、ツブラオホミ(=葛城円)の邸に逃げ込んだマヨワも、ツブラオホミともども攻め滅ぼされる、という形。攻めている途中、前から言い交わしていたツブラオホミの娘カラヒメを妃として大長谷命は手中に収めた、とみられる。

大長谷命が安康天皇の跡を継ぎ、第二十一代雄略天皇。雄略天皇は、安康天皇暗殺というどさくさに紛れて、シロヒコ、クロヒコという皇位継承の有力な競争相手である兄弟を滅ぼしたことになる。

雄略天皇にとっては、天皇暗殺犯のマヨワはもちろん、クロヒコも反逆者。反逆者の墓が後代に残り、丁重に葬られている、という日本の伝統がここにも表れている

なお、『大和国古墳墓取調書』を書いた野淵龍潜は、江戸時代に書かれた『大和志』の指摘どおり、「天狗森」と呼ばれている今木の南側の丘陵地に「新漢槻本南丘」の候補地を求めている。

なお、騒動のきっかけとなった安康天皇の陵は古城1号墳(奈良県・奈良市)に治定され、それを収めた、つまり三人を攻め滅ぼした雄略天皇の陵は島泉丸山古墳(大阪府・羽曳野市)に治定され、これとは別に河内大塚山古墳(大阪府・松原市)が「大塚陵墓参考地」として治定されている。

【関連サイト】
坂合黒彦皇子の墓 - 大淀町商工会