・所在地:大阪府羽曳野市軽里3-4-7

・時 期:5世紀後半
・時 代:古墳時代中期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定

【概要】
宮内庁により「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」として第十二代景行天皇の皇子ヤマトタケルの陵に治定されている。

古市古墳群の南部、墓山古墳の南、白髪山古墳の北東に位置し、全長約190メートル、後円部径約106メートル、高さ約20メートル、前方部幅約165メートル、高さ約23メートルの前方後円墳。古市古墳群で7番目の大きさ。

墳丘は三段築成で前方部を西に向け、くびれ部の両側には造り出しがある。周囲には幅約35メートルの周濠と上面幅21メートルの堤がめぐらされている。

1981年の発掘調査で、後円部の円筒埴輪列が確認されたほか、朝顔形埴輪や家、蓋などの形象埴輪が出土した。これらの出土品や、前方部幅が後円部径に比べて約1.5倍もあるという墳形上の特徴から、古市古墳群では市ノ山古墳とほぼ同時期、5世紀後半の築造と推定されている。

ヤマトタケルは東国遠征からの帰還中、伊吹山の神退治を侮り、瀕死の重傷を負う。その後、能煩野まで来たが同地で薨去。同地で葬式が行われ、陵が築かれたことが古事記にも記されている。現在では能褒野王塚古墳(三重県・亀山市)が「能褒野墓」としてヤマトタケルの墓に治定されている。

古事記でも、その後ヤマトタケルが白鳥になり、自由自在に飛び回り、「河內國之志幾」にとどまったので、そこにも陵を造成したとある。その後、またその白鳥は飛び立っていた、とされる。

『白鳥神社縁起』によると、ヤマトタケルはその後、西方の埴生の丘の上を羽を曳くがごとく飛びさり、和泉の大鳥にとどまり、その後天高く飛び去った、という。この伝承に因んで、市の名称が「羽曳野」となった。

なお、宮内庁では、大和琴弾原古墳(奈良県・御所市)も「白鳥陵」に治定している。日本書紀の記述を参考に、宮内庁では三陵(亀山市の日本武尊能褒野墓、御所市の日本武尊琴引原白鳥陵、羽曳野市の日本武尊白鳥陵)を治定していると思われる。

父である景行天皇の陵は渋谷向山古墳(奈良県・天理市)に、母イナビノオオイラツメの陵は日岡陵(兵庫県・加古川市)に、実兄であり、古事記では自身が殺したとされるオオウスの墓は大碓命墓(愛知県・豊田市)に、実弟のカムクシの墓は神櫛王墓(香川県・高松市)に、異母兄弟である第十三代成務天皇の陵は佐紀石塚山古墳(奈良県・奈良市)に、子である第十四代仲哀天皇の陵は岡ミサンザイ古墳(大阪府・藤井寺市)に、それぞれ治定されている。

また、最愛の叔母ヤマトヒメの墓は尾上御陵(三重県・伊勢市)が宮内庁によって管理されている。

なお、熱田神宮(愛知県・名古屋市)では、創祀者とも言うべき、ヤマトタケル妃ミヤズヒメの陵を、熱田神宮北西数百メートルにある断夫山古墳とし、また熱田神宮の西方、断夫山古墳の南方にある白鳥古墳をヤマトタケル陵としており、現在も毎年5月8日に御陵墓祭を行なっている。

世界遺産への登録を進めている百舌鳥・古市古墳群のリストにおいて、「日本武尊白鳥陵古墳(やまとたけるのみことはくちょうりょうこふん)」として、前方後円墳(200m)、NO.F43で設定されている。百舌鳥・古市古墳群のリストにおける古市古墳群のリストも参照。
軽里大塚古墳(大阪府・羽曳野市)
【関連サイト】
軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん) ヤマトタケルの墓と伝えられる古墳

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日本武尊白鳥陵(大阪府羽曳野市)と日本武尊白鳥陵模型(京都大学文学部考古学研究室蔵) - 坪井清足監修『卑弥呼の時代を復元する―復元するシリーズ〈1〉』P96