・所在地:奈良県香芝市北今市4-327-4
・経緯度:北緯34度55分07.47秒 東経135度70分08.52秒

・時 期:-
・時 代:-
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定

【概要】
宮内庁により「傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)」として第二十三代顕宗天皇の陵に治定されている。

前方後円墳とされるが、よく分からない。名称は、傍丘磐坏丘北陵古墳(奈良県・香芝市)に治定されている第二十五代武烈天皇の「傍丘磐坏丘北陵」と対応したものであるが、古事記には、片岡之石坏岡上とあるだけで、南北の区別はない。

また、この二陵と、第七代孝霊天皇の陵「片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)」に治定されている片丘馬坂古墳(奈良県・北葛城郡)も含め、これら三陵を「片岡三陵」と呼ぶ。

顕宗天皇は子どもの頃、祖父が第十七代履中天皇で、父イチノベノオシハを第二十一代雄略天皇に惨殺され、兄とともに雄略天皇の魔手から逃れるべく播磨まで逃げ、そこに潜伏して身を潜めた。時が経って、皇位継承者が見当たらなくなった時、播磨にいたところを兄とともに発見され、当時政を執っていた父の妹、つまり叔母に当たるイイトヨノイラツメらに都に呼び戻され、即位した。

崩御後、この兄が即位して、第二十四代仁賢天皇となる。天皇家の系譜も参照。

なお、顕宗天皇にはこれとは別に、築山古墳(奈良県・大和高田市)が「磐園陵墓参考地」として治定されている。

古事記にも自ら造成を指示したとある、父のイチノベノオシハの墓は現在、古保志塚(滋賀県・東近江市)に、兄の仁賢天皇の陵はボケ山古墳(大阪府・藤井寺市)に、皇后のナニワの陵は狐井塚古墳(奈良県・大和高田市)に、それぞれ治定されている。

また、父の仇として、自身が破壊指令を出した雄略天皇の陵は、隣接する円墳の島泉丸山古墳、方墳の島泉平塚古墳(大阪府・羽曳野市)に治定され、これとは別に河内大塚山古墳(大阪府・松原市)が「大塚陵墓参考地」として治定されている。

【関連サイト】
顕宗天皇 - Wikipedia