・所在地:奈良県北葛城郡広陵町大塚
・大王(オオキミ)墓候補
・時 期:4世紀前半
・時 代:古墳時代前期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:陵墓参考地
【概要】
宮内庁により「大塚陵墓参考地」(被葬候補者:第二十五代武烈天皇)として陵墓参考地に治定されている。
奈良県西部の馬見古墳群に属し、その郡中でも初期にあたる4世紀前半ごろに築造され、墳丘は前方部を南にむけ、全長約126メートル、後方部幅67メートル高さ約10メートル、前方部幅約66メートルほどの前方後方墳。馬見古墳群に属する。
明治18年(1885年)に所有者が植樹の際に穴を掘ったところ後方部にあった竪穴式石室につきあたり、直弧文鏡含めた34面の銅鏡ほか、多数の副葬品が出土している。
そのうち、銀製帯具は、中国江蘇省宜興市の周氏墓群1号墓(西晋周處墓)その他の六朝期の古墳から出土した帯具と類似性が強く、中国江南からもたらされたものか、その影響を受けたものである可能性がある。
この古墳の築造が4世紀前半であれば、実在も疑われがちな武烈天皇だが、時代は大きく異なることになる。
武烈天皇の陵として、宮内庁では別に傍丘磐坏丘北陵古墳(奈良県・香芝市)を「傍丘磐坏丘北陵」として治定している。 【関連サイト】
・新山古墳 - Wikipedia
・大王(オオキミ)墓候補
・時 期:4世紀前半
・時 代:古墳時代前期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:陵墓参考地
【概要】
宮内庁により「大塚陵墓参考地」(被葬候補者:第二十五代武烈天皇)として陵墓参考地に治定されている。
奈良県西部の馬見古墳群に属し、その郡中でも初期にあたる4世紀前半ごろに築造され、墳丘は前方部を南にむけ、全長約126メートル、後方部幅67メートル高さ約10メートル、前方部幅約66メートルほどの前方後方墳。馬見古墳群に属する。
明治18年(1885年)に所有者が植樹の際に穴を掘ったところ後方部にあった竪穴式石室につきあたり、直弧文鏡含めた34面の銅鏡ほか、多数の副葬品が出土している。
そのうち、銀製帯具は、中国江蘇省宜興市の周氏墓群1号墓(西晋周處墓)その他の六朝期の古墳から出土した帯具と類似性が強く、中国江南からもたらされたものか、その影響を受けたものである可能性がある。
この古墳の築造が4世紀前半であれば、実在も疑われがちな武烈天皇だが、時代は大きく異なることになる。
武烈天皇の陵として、宮内庁では別に傍丘磐坏丘北陵古墳(奈良県・香芝市)を「傍丘磐坏丘北陵」として治定している。 【関連サイト】
・新山古墳 - Wikipedia
コメント