・所在地:奈良県明日香村平田160
・時 期:-
・時 代:古墳時代後期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定
【概要】
宮内庁により「檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)」として第二十九代欽明天皇の陵に治定されている。
墳丘は前方部を西に向け東西に正確に主軸をとった前方後円墳で、全長約140メートル 後円部径72メートル。非常に多くの葺石があることでも知られている。
現在は回りに水を湛えた周濠を持っているが、これは江戸時代の文久の修復で大幅に改築されたものであり、元は田であった。また、この修復の際に双円墳から前方後円墳に改造されたとする考えもある。
梅山古墳から北西に約800メートル行った所にある奈良県下最大の古墳の見瀬丸山古墳(奈良県・橿原市)を欽明天皇陵とする学説も多い。しかし、見瀬丸山古墳は日本書紀の「檜隈の地」「大量の葺石」という記述に合致しない。
この古墳と、見瀬丸山古墳については、蘇我氏の勢力範囲ということで、蘇我稲目の陵墓とする説もそれぞれにある。古事記にあるソガノイナメのことで、現在では同じく明日香村の都塚古墳をその墓とする説も有力。
欽明天皇は、父が第二十六代継体天皇、子に第三十代敏達天皇、第三十一代用明天皇、第三十二代崇峻天皇、第三十三代推古天皇などがいる。
なお、父の継体天皇の陵は太田茶臼山古墳(大阪府・茨木市)に、異母兄弟の第二十七代安閑天皇の陵は高屋築山古墳(大阪府・羽曳野市)に、第二十八代宣化天皇の陵は鳥屋ミサンザイ古墳(奈良県・橿原市)に、それぞれ治定されている。
また、子の敏達天皇の陵は太子西山古墳(大阪府・太子町)に、用明天皇の陵は春日向山古墳(大阪府・太子町)に、崇峻天皇の陵は倉梯岡陵古墳(奈良県・桜井市)に、推古天皇の陵は山田高塚古墳(大阪府・太子町)に、オオトモの墓は押坂内墓(奈良県・桜井市)に、それぞれ治定されている。天皇家の系譜も参照。
欽明天皇陵(檜隈坂合陵)として、日本遺産「日本国創成のとき―飛鳥を翔(かけ)た女性たち―」の構成文化財の一つ。
【関連サイト】
・欽明天皇陵「平田梅山古墳」
【関連記事】
・日本遺産「日本国創成のとき―飛鳥を翔(かけ)た女性たち―」(平成27年度)(明日香村)
・時 期:-
・時 代:古墳時代後期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定
【概要】
宮内庁により「檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)」として第二十九代欽明天皇の陵に治定されている。
墳丘は前方部を西に向け東西に正確に主軸をとった前方後円墳で、全長約140メートル 後円部径72メートル。非常に多くの葺石があることでも知られている。
現在は回りに水を湛えた周濠を持っているが、これは江戸時代の文久の修復で大幅に改築されたものであり、元は田であった。また、この修復の際に双円墳から前方後円墳に改造されたとする考えもある。
梅山古墳から北西に約800メートル行った所にある奈良県下最大の古墳の見瀬丸山古墳(奈良県・橿原市)を欽明天皇陵とする学説も多い。しかし、見瀬丸山古墳は日本書紀の「檜隈の地」「大量の葺石」という記述に合致しない。
この古墳と、見瀬丸山古墳については、蘇我氏の勢力範囲ということで、蘇我稲目の陵墓とする説もそれぞれにある。古事記にあるソガノイナメのことで、現在では同じく明日香村の都塚古墳をその墓とする説も有力。
欽明天皇は、父が第二十六代継体天皇、子に第三十代敏達天皇、第三十一代用明天皇、第三十二代崇峻天皇、第三十三代推古天皇などがいる。
なお、父の継体天皇の陵は太田茶臼山古墳(大阪府・茨木市)に、異母兄弟の第二十七代安閑天皇の陵は高屋築山古墳(大阪府・羽曳野市)に、第二十八代宣化天皇の陵は鳥屋ミサンザイ古墳(奈良県・橿原市)に、それぞれ治定されている。
また、子の敏達天皇の陵は太子西山古墳(大阪府・太子町)に、用明天皇の陵は春日向山古墳(大阪府・太子町)に、崇峻天皇の陵は倉梯岡陵古墳(奈良県・桜井市)に、推古天皇の陵は山田高塚古墳(大阪府・太子町)に、オオトモの墓は押坂内墓(奈良県・桜井市)に、それぞれ治定されている。天皇家の系譜も参照。
欽明天皇陵(檜隈坂合陵)として、日本遺産「日本国創成のとき―飛鳥を翔(かけ)た女性たち―」の構成文化財の一つ。
【関連サイト】
・欽明天皇陵「平田梅山古墳」
【関連記事】
・日本遺産「日本国創成のとき―飛鳥を翔(かけ)た女性たち―」(平成27年度)(明日香村)
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