・所在地:奈良県葛城市北花内144

・時 期:5世紀末
・時 代:古墳時代中期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定

【概要】
宮内庁により「葛城埴口丘陵(かずらきのはにくちのおかのみささぎ)」として第十七代履中天皇の皇女イイトヨノイラツメの陵に治定されている。

ただ単に大塚古墳とも言うが、全国各地に大塚古墳があるので、地名を冠して区別をつけている。延喜式の記述から埴口墓、埴口古墳とも。

後円部径50メートル、前方部の最大幅70メートル、墳丘全長90メートルの前方後円墳。墳丘の周囲にはいまも水をたたえた楯形の周濠で、幅10-15メートル。5世紀末の築造と考えられている。

イイトヨノイラツメ(飯豊郎女)は、飯豊青皇女などとも表記され、天皇不在の際、一時執政したとされ、飯豊天皇とも呼ばれる。古事記でもその宮が記述され、日本書紀でも「墓」ではなく、天皇扱いの「陵」と記されている。

同母兄に第二十一代雄略天皇に惨殺されたイチノベノオシハらがいる。雄略天皇の皇子・第二十二代清寧天皇崩御後、皇位継承者が不在となり、政を執る。

後、イチノベノオシハの忘れ形見、イイトヨノイラツメにとっては甥っ子に当たる兄弟二人が雄略天皇から逃れるための潜伏していた播磨で見つかり、二人を呼び寄せ、大政を奉還する。まず弟・袁祁王が即位して第二十三代顕宗天皇、次いで兄・意祁王が即位して第二十四代仁賢天皇

神功皇后から、史上初の女帝とされる推古天皇までにあらわれる、女性執政者の走り。日本書紀には、生涯に一度しか男性と経験することがなかった、とされている。天皇家の系譜も参照。

父の履中天皇の陵は上石津ミサンザイ古墳(大阪府・堺市)に、兄のイチノベノオシハの墓は古保志塚(滋賀県・東近江市)に、それぞれ治定されている。

【関連サイト】
北花内大塚古墳