・所在地:奈良県橿原市北越智町472

・時 期:5世紀前半
・時 代:古墳時代中期
・形 状:方墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定

【概要】
宮内庁により「身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか)」として第十代崇神天皇の皇子ヤマトヒコの墓に治定されている。

新沢千塚古墳群の東側、県立橿原高校の南東隣に位置する。一辺約90メートル、高さ約15メートルの規模を測る三段築成の方墳で、方墳としては日本最大の規模。

表面で採取される埴輪から、5世紀前半の築造と推定されている。航空写真では、北東に前方部を向ける前方後円墳に見えるが、これは幕末に行われた修陵によって改変を受けたため。

ヤマトヒコは、古事記では倭日子命、日本書紀では倭彦命、他文献では倭彦王子などと表記される、第十一代垂仁天皇の実弟。いずれにせよ、日本書紀に陵名の記載があるほか、具体的な事績は伝わっていない。

古事記には「初めて陵墓に人の垣を建てた」とある。殉死を連想させる。日本書紀ではより具体的で、ヤマトヒコ薨去に際し、近習が墓の周辺に生き埋めにされたが、数日間も死なずに昼夜呻き続けた上、その死後には犬や鳥が腐肉を漁った、とされる。

このため、さまざまな伝承は伝わっているが、垂仁天皇の御世を境に、殉死の禁止が行われるようになった。具体的な事績が伝わらない分、この説話が有名になっているようで、「倭彦命 生き埋め」はGoogle検索の検索候補としても出現する。その説話の現場がこの古墳、ということになる。

なお、父の崇神天皇の陵は行燈山古墳(奈良県・天理市)に、同母兄の垂仁天皇の陵は宝来山古墳(奈良県・奈良市)に、異母兄弟のオオイリキの墓は小田中親王塚古墳(石川県・鹿島郡)に、ヤサカイリビコの墓は大萱古墳(岐阜県・可児市)に、それぞれ治定されている。

【関連サイト】
桝山古墳(崇神天皇皇子倭彦命墓) - 橿原市