・所在地:奈良県奈良市山陵町347

古墳ランキング > 31位
大王(オオキミ)墓候補

・時 期:4世紀
・時 代:古墳時代前期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定

【概要】
宮内庁により「狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)」として第十一代垂仁天皇の後の皇后のヒバスヒメの陵に治定されている。

佐紀盾列古墳群に属し、全長207メートル、前方部幅約87メートル、後円部径131メートル、前方部高さ12.3メートル、後円部高さ約20メートルの規模の三段に築成された前方後円墳で、全国31位の規模。

殉死のかわりに初めて埴輪を御陵に立てたという説話が日本書紀に記されているのがこの古墳ではないかとされている。古事記では「土師部(はにしべ)を定める」とあり、野見宿禰との関連を示唆する。ただし、野見宿禰の埴輪に関する説話は、考古学的には否定される傾向にあるという。

すぐに西側に接して築かれている佐紀石塚山古墳のくびれ部に佐紀陵山古墳の後円部がくい込んだ配置になっている。このため佐紀石塚山古墳の周濠は極端に狭くなっており、佐紀陵山古墳の方が先に築かれたことが推定されている。

大正時代に盗難事件が発生しており、それに伴って調査が行われ、現在に至るまで治定陵としては珍しく比較的詳細な情報が伝わっている。

石室内からの出土遺物としては、銅鏡として、流雲文縁変形方格規矩鏡仿製鏡、唐草文縁変形方格規矩鏡、直弧文縁変形内行花文鏡があるが、これらの三面は32センチ-34センチの直径があり、舶載鏡(中国鏡)よりかなり大きい。

その他には、石製腕飾り類は車輪石3、鍬形石3、石釧1、石製模造品としては刀子3、斧1、高杯2、椅子1、また管玉1、琴柱形石製品、石製臼1などが出土している。

古事記において、ヒバスヒメは、先の皇后だったサオビメが、実兄のサオビコとデキてしまい、サオビコが反逆したために、サオビメも兄に殉じ、垂仁天皇が改めて嫁取りした時に登場してきた女性。妹に、救われない姫マトノがいる。タジマモリから常世の国からの品物として、持ち帰った橘の半分を献上されている。

先の土師部のことについてのほか、「石棺作りを定め」と特筆されており、これは佐紀陵山古墳の被葬者がヒバスヒメであれば、佐紀陵山古墳の特徴として、「後円部頂上中央に存在する方形区画の真下につくられた竪穴式石室は、主軸をほぼ南北に持ち、長さ8.55メートル、幅1.09メートルという巨大なもの」と対応、するのかもしれない。

なお、父のヒコタタスミチノウシ雲部車塚古墳(兵庫県・篠山市)に、夫の垂仁天皇の陵は宝来山古墳(奈良県・奈良市)に、子のイニシキイリビコの墓は淡輪ニサンザイ古墳(大阪府・泉南郡岬町)に、第十二代景行天皇の陵は渋谷向山古墳(奈良県・天理市)に、娘のヤマトヒメの墓は尾上御陵(三重県・伊勢市)に、それぞれ治定されている。
佐紀陵山古墳(奈良県・奈良市) by Googleアース - ぶっちゃけ古事記
【関連サイト】
佐紀陵山古墳 - Wikipedia

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