・所在地:奈良県奈良市山陵町185-2

古墳ランキング > 25位
大王(オオキミ)墓候補

・時 期:4世紀中葉
・時 代:古墳時代前期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定

【概要】
宮内庁により「狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)」として第十三代成務天皇の陵に治定されている。

佐紀盾列古墳群に属し、佐紀陵山古墳に隣接し、全長218.5メートル、後円部径132メートル、高さ19メートル、前方部は幅121メートル、高さ16のメートル。全国第25位の規模。墳丘は三段に築成され、葺石が多用されていることが名前の由来となった。

もともと成務天皇の陵は五社神古墳(奈良県・奈良市)とされたが、9世紀に怪異があり、被葬者(神功皇后)が入れ替わった経緯がある。

前方部の前面をのぞいて、周濠の幅は全体に狭いが、ことに東側では極端に狭く、佐紀陵山古墳(奈良県・奈良市)の後円部の周濠が当古墳のくびれ部にくいこんでいる。佐紀陵山古墳が先に築造されていたためであろうが、どのような理由から、このように接近させて古墳を築造させたのかは不明。

佐紀陵山古墳との時期差は数十年の差はないようであるので、両古墳の被葬者には親族関係など特別な関係が存在する可能性も指摘されている。周濠外には、北から東北にかけて3基の陪塚があって、順次い号、ろ号、ほ号と名付けられている。

現在知られている副葬品は大正以前の盗掘による被害も考慮すると、本来の品目のごく一部に過ぎないと思われるが、それでも銅鏡5-6面、石製腕飾類7個、刀子形・斧形・高杯形・椅子形の石製模造品7個、琴柱形石製品2個、管玉、石製合子、石製臼各1個などがある。

変形方格規矩鏡3面はそれぞれ流雲文、唐草文、直弧文で外区を飾り、いずれも面径が30センチを超える大型仿製鏡の優品とされる。

このほか復旧工事で出土した蓋形埴輪は高さ約1.5メートル、差し渡し約2メートルの巨大なもので、橿原考古学研究所附属博物館に模造品が展示されている。家形埴輪も精巧を極めたものであったとされるが、残念ながらいずれも現在は実物を見ることはできない。

成務天皇に関しては、記述が極端に少なく、非実在論があるほど。それでも、建内宿禰を大臣に起用するなどが古事記にも記載されており、日本書紀には建内宿禰と同じ日の生まれだったので、特に可愛がったという記述がある。また、日本書紀では、異母兄に当たるヤマトタケルの功績をたたえ、実子がいながら、ヤマトタケルの子を後継者に指名したとある。第十四代仲哀天皇である。

関係は、天皇家の系譜に詳しい。

なお、父である景行天皇の陵は渋谷向山古墳(奈良県・天理市)に、異母兄弟であるヤマトタケルの墓は能褒野王塚古墳(三重県・亀山市)、大和琴弾原古墳(奈良県・御所市)、軽里大塚古墳(大阪府・羽曳野市)に、甥っ子で皇位を引き継いだヤマトタケルの子である第十四代仲哀天皇の陵は岡ミサンザイ古墳(大阪府・藤井寺市)に、それぞれ治定されている。
佐紀石塚山古墳(奈良県・奈良市) by Googleアース - ぶっちゃけ古事記
【関連サイト】
佐紀陵山古墳[奈良市山稜町] - 橿原考古学研究所附属博物館

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