・所在地:奈良県奈良市山陵町945

古墳ランキング > 12位
大王(オオキミ)墓候補

・時 期:4世紀後半-5世紀初期
・時 代:古墳時代中期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定

【概要】
奈良市北部の大古墳群である佐紀盾列古墳群の西端にあり、全長約270メートルの前方後円墳で、全長約275メートル・後円部径約195メートル、後円部高さ23メートル、前方部幅155メートル、前方部高さ27メートル、全国12位の規模。

年代は4世紀末から5世紀初めとされる。宮内庁により「狹城楯列池上陵(さきたたなみいけのえのみささぎ)」として第十四代仲哀天皇皇后の神功皇后の陵に治定されている。

平成16年(2004年)に15の学会・協会に対し公開された。2008年、宮内庁が陵墓としては初めて日本考古学協会を窓口とする16団体の要望による立ち入り調査を許可し、同年2月22日に実施され16名が立ち入った。前方部東側の墳丘裙やや外側ではそれまで知られていなかった円筒埴輪列が原位置のまま確認された。

また別に出土した壺形埴輪も含め、これらの埴輪の年代は4世紀中葉から後半と思われる。

日本書紀では、第十三代成務天皇の陵が「倭の狭城盾列陵」、神功皇后の陵が「狭城盾列陵」とあったために、本古墳の東南にある当初は佐紀石塚山古墳(奈良県・奈良市)が神功皇后のものとされたが、承和10年(843年)3月の日食の時に盾列陵で二度にわたって山鳴りがするなどの怪異があったため、調べてみて、現陵に治定された。

神功皇后の子が、第十五代応神天皇天皇家の系譜も参照。

なお、夫である仲哀天皇の陵は岡ミサンザイ古墳(大阪府・藤井寺市)に、子の応神天皇の陵は誉田御廟山古墳(大阪府・羽曳野市)に、それぞれ治定されている。また、臣下として古事記に頻出する建内宿禰の墓は室大墓古墳(奈良県・御所市)が有力視されている。
五社神古墳(奈良県・奈良市) by Googleアース - ぶっちゃけ古事記
【関連サイト】
五社神古墳 - Wikipedia

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