・所在地:京都府宇治市莵道丸山34
・経緯度:北緯34度89分85.41秒 東経135度80分50.93秒
・時 期:-
・時 代:-
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定
【概要】
宮内庁が第十五代応神天皇の皇太子・和紀郎子(うじのわかきいらつこ)の墓「宇治墓」に治定している。約80メートルの前方後円墳、とされる。一部では、もともと円墳だったものを、治定後に前方後円墳に変えた、などの指摘も見られる。また、そもそも墓ではない、と断じる向きもある。
和紀郎子は古事記の宇遅能和紀郎子の他、菟道稚郎子皇子、宇治若郎子、宇治稚郎、菟道稚郎子、宇治稚彦皇子、、兎道稚郎皇子、兎遅稚郎子、菟道稚郎皇子 などとも表記される。いずれにせよ、京都府の宇治と関わりが深い。
古事記では、応神天皇が、有力皇子と思われる大山守命と大雀命に対して問答するところで、皇太子に指名されることで登場する。その後に、母であり、応神天皇の愛妃ヤカワエヒメとの馴れ初めが語られる。
その後、応神天皇が崩御すると、大雀命から大山守命が反逆するらしいと聞くと、宇治川の船頭になりますまして大山守命を騙し討ち。遺骸を川から引き揚げると丁重に葬る。現在、大山守命の墓は那羅山墓として宮内庁に治定されている。
その後、大雀命と皇位を譲り合う。海人がどちらに献上品を持って行けばよいか悩むという説話を挟みながらも、早逝する。そのため、大雀命が即位して、第十六代仁徳天皇となる。
日本書紀では、この早逝を皇位継承にケリをつけるための自殺としている。また、大雀命との対立説や、実際には皇位に就いていたとする説が根強い。ただし、宇治に宮が置かれたような考古学的な成果はなく、また、もし現「宇治墓」が和紀郎子の墓でないならば、それにふさわしい古墳が宇治にはない、とされる。
その死に際しては散骨された、という伝承もある(続日本後紀)。ただし、続日本後紀に見られるだけであり、火葬が前提とされる散骨を和紀郎子が行ったとするには時代的には難しい面がありそう。
なお、父の応神天皇の陵は誉田御廟山古墳(大阪府・羽曳野市)に、異母兄弟の仁徳天皇の陵は大仙陵古墳(大阪府・堺市)に、大山守命の墓は那羅山墓(奈良県・奈良市)に、それぞれ治定されている。
【関連サイト】
・菟道稚郎子 - Wikipedia
・菟道稚郎子墓 - 荒川史(宇治市教育委員会)
・経緯度:北緯34度89分85.41秒 東経135度80分50.93秒
・時 期:-
・時 代:-
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定
【概要】
宮内庁が第十五代応神天皇の皇太子・和紀郎子(うじのわかきいらつこ)の墓「宇治墓」に治定している。約80メートルの前方後円墳、とされる。一部では、もともと円墳だったものを、治定後に前方後円墳に変えた、などの指摘も見られる。また、そもそも墓ではない、と断じる向きもある。
和紀郎子は古事記の宇遅能和紀郎子の他、菟道稚郎子皇子、宇治若郎子、宇治稚郎、菟道稚郎子、宇治稚彦皇子、、兎道稚郎皇子、兎遅稚郎子、菟道稚郎皇子 などとも表記される。いずれにせよ、京都府の宇治と関わりが深い。
古事記では、応神天皇が、有力皇子と思われる大山守命と大雀命に対して問答するところで、皇太子に指名されることで登場する。その後に、母であり、応神天皇の愛妃ヤカワエヒメとの馴れ初めが語られる。
その後、応神天皇が崩御すると、大雀命から大山守命が反逆するらしいと聞くと、宇治川の船頭になりますまして大山守命を騙し討ち。遺骸を川から引き揚げると丁重に葬る。現在、大山守命の墓は那羅山墓として宮内庁に治定されている。
その後、大雀命と皇位を譲り合う。海人がどちらに献上品を持って行けばよいか悩むという説話を挟みながらも、早逝する。そのため、大雀命が即位して、第十六代仁徳天皇となる。
日本書紀では、この早逝を皇位継承にケリをつけるための自殺としている。また、大雀命との対立説や、実際には皇位に就いていたとする説が根強い。ただし、宇治に宮が置かれたような考古学的な成果はなく、また、もし現「宇治墓」が和紀郎子の墓でないならば、それにふさわしい古墳が宇治にはない、とされる。
その死に際しては散骨された、という伝承もある(続日本後紀)。ただし、続日本後紀に見られるだけであり、火葬が前提とされる散骨を和紀郎子が行ったとするには時代的には難しい面がありそう。
なお、父の応神天皇の陵は誉田御廟山古墳(大阪府・羽曳野市)に、異母兄弟の仁徳天皇の陵は大仙陵古墳(大阪府・堺市)に、大山守命の墓は那羅山墓(奈良県・奈良市)に、それぞれ治定されている。
【関連サイト】
・菟道稚郎子 - Wikipedia
・菟道稚郎子墓 - 荒川史(宇治市教育委員会)
コメント